自然災害伝承碑データのOSMインポート

ID碑名建立年所在地災害名災害種別伝承内容
01204-001美瑛川治水竣功記念1958北海道旭川市西神楽南1条3丁目昭和22年8月洪水(1947年8月15日~16日)洪水昭和22年(1947)8月15日~16日の豪雨は、大正4年(1915) に次ぐ約30年ぶりの大洪水となり、尊い命が犠牲になったほか家屋の浸水、田畑の流出等の被害が発生した。
01208-001樹霊供養之塔1959北海道北見市留辺蘂町富士見洞爺丸台風(1954年9月26日)その他昭和29年(1954)9月26日、北海道に襲来した台風15号(洞爺丸台風)は、一夜にして道内の広い範囲で立木をなぎ倒し、森林に大規模な被害を与えた。中でも層雲峡地帯北見富士山麓の被害は甚だしく、世界林業史上例をみない風倒木を出現させた。
01333-001復興記念碑1976北海道上磯郡知内町字小谷石昭和48年集中豪雨(1973年9月24日)土砂災害昭和48年(1973)9月23日から25日にかけて、強い集中豪雨が道南地方を襲い、特に24日13時からの1時間雨量は133mmを記録した。この大雨による土石流とがけ崩れ等で小谷石地区全戸数の40%にあたる100戸が全壊又は流失し、死者4名、行方不明者4名の被害が生じた。碑には当時中ノ沢上流から流れてきた自然石が使用されている。
01367-001時空翔1998北海道奥尻郡奥尻町字青苗49北海道南西沖地震(1993年7月12日)地震・津波1993年7月12日午後10時17分に発生した北海道南西沖地震はマグニチュード7.8と日本海では観測史上最大級で、激しい地震の数分後に大津波が押し寄せた。奥尻町では地震・津波・火災により198名の尊い命が犠牲となった。碑の土台は押し寄せた津波と同じ高さまで盛土されている。
01367-002慰霊碑 1997北海道奥尻郡奥尻町字松江23-1北海道南西沖地震(1993年7月12日)地震・津波1993年7月12日午後10時17分、奥尻島を襲った北海道南西沖地震による津波により多くの人命や家屋が失われた。その恐ろしさを後世に伝えるため建立した。この慰霊碑がある初松前地区では34名の尊い命が犠牲となった。
01367-003慰霊碑 1997北海道奥尻郡奥尻町字奥尻309-2北海道南西沖地震(1993年7月12日)土砂災害・地震1993年7月12日午後10時17分、奥尻島を襲った北海道南西沖地震によって大規模な斜面崩壊が発生し、ホテルなどの建物が一瞬にして飲み込まれた。この慰霊碑がある奥尻地区では観光客を含む31名の尊い命が犠牲となった。
01367-004慰霊碑 1997北海道奥尻郡奥尻町字稲穂107北海道南西沖地震(1993年7月12日)地震・津波1993年7月12日午後10時17分、突然奥尻島を襲った北海道南西沖地震により死者・行方不明者を合わせて198名もの人命を奪った大惨事を後世に伝え遺すため建立した。この慰霊碑がある稲穂地区では18名の尊い命が犠牲となった。
01429-001水難溺死者供養之碑1899北海道栗山町角田42番地(方田寺)明治31年洪水(1898年9月6日~8日)洪水明治31年(1898)9月6日から8日までの大雨により夕張川をはじめ周辺河川が一斉にあふれ大氾濫となった。角田の低地帯は一面浸水し、92戸の家屋が流失、82名の尊い命が犠牲となった(境内立ち入りには方田寺の許可が必要)。
01459-001大正大爆発丸谷温泉遭難者慰霊碑1975北海道上川郡美瑛町十勝岳望岳台火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳大爆発に遭遇し、この地では3名が一瞬にして山津波に巻込まれ死亡。温泉はもとより、施設とともに潰滅した。
01459-002十勝岳爆発記念1963北海道上川郡美瑛町十勝岳望岳台火山噴火(1962年6月29日)火山災害昭和37年(1962)6月29日、十勝岳爆発により、宿舎に宿泊していた5名が火山弾の直撃を受けて犠牲となった。碑には「昭和三十八年八月八日この碑を建設するに当り当時殉難の五氏を慎むと共に山岳無縁物故者の霊を慰む」とある。
01460-001遭難記念碑1927北海道空知郡上富良野町西2線北31号火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳が大爆発した。山腹が崩壊し森林が倒壊、積雪が溶け火山泥流となり富良野川沿いを流れ市街地へと押しよせた。この災害で100余の人命を喪失し巨万の財物を滅尽した。碑の台石は泥流によって流されてきた転石をそのまま使用している。
01460-002追善記念碑1930北海道空知郡上富良野町西6線北28号火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳が大爆発した。積雪が溶け火山泥流が発生し、144名の尊い人命とともに、家畜も大きな被害を受けた。泥流に呑まれ犠牲となった馬25頭、牛3頭の供養のため建立された。
01460-003新西国三十三所 観世音菩薩1930北海道空知郡上富良野町中町3丁目(大雄寺境内)火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳が大爆発した。積雪が溶け火山泥流が発生し、144名が犠牲となった。大雄寺周辺にも泥流が押し寄せ、庫裡の床下が泥流で埋った。犠牲となった方の追善供養のため、この地に、三十三所観世音菩薩が建立された。
01460-004遭難記念碑1926北海道空知郡上富良野町西町1丁目(明憲寺境内)火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳が大爆発、積雪が溶け火山泥流が発生し、144名が犠牲となった。この碑の台座正面に銅版が埋め込まれ、遭難死者144名の姓名が刻まれている。
01460-005十勝岳爆発惨死者碑1926北海道空知郡上富良野町栄町3丁目(専誠寺境内)火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳が大爆発、積雪が溶けた火山泥流により犠牲になった144名の慰霊のため役場裏庭に建立された。数度の移転等を経て昭和63年(1988)から現在地に安置されている。
01460-006十勝岳爆発横死者血縁塔1927北海道空知郡上富良野町本町2丁目(聞信寺境内)火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日、十勝岳大爆発により犠牲となった無縁仏12名のための血縁塔として建立された。碑の裏面には法名と推定年齢が刻まれている。
01460-007『泥流地帯』三浦綾子文学碑1984北海道空知郡上富良野町西3線北28号火山噴火・泥流(1926年5月24日)火山災害大正15年(1926)5月24日に起きた十勝岳の爆発は、残雪を溶かして泥流を発生させた。泥流は144名の尊い人命を奪い、開拓以来苦難を乗り越え、血と汗によって築いた沃野を一瞬のうちに泥田と化した。惨事を風化させず、復興を成し遂げた先人の偉業を称え、被災の地に建立された。
01487-001追悼碑1972北海道天塩郡天塩町字川口8413積丹半島沖地震(神威岬沖地震)(1940年8月2日)津波昭和15年(1940)8月2日、神威岬北西沖を震源地とする積丹半島沖地震(神威岬沖地震)により、天塩川口は2メートルの津波に襲われ10名の命が奪われた。
01552-001慰霊之碑2007北海道佐呂間町字若佐平成18年11月竜巻(2006年11月7日)その他平成18年(2006)11月7日、佐呂間町若佐を一瞬にして竜巻が通り過ぎ31名が負傷し、新佐呂間トンネルの技術関係者9名が犠牲となった。住家は全壊7棟を含め41棟に、非住家は76棟に被害があった。
01559-001水天宮の跡1984北海道紋別郡湧別町北兵村78-1明治31年洪水(1898年9月6日~8日)洪水明治31(1898)年9月6日から8日にかけて全道的に発生した大豪雨は、各河川で氾濫となった。湧別川の増水は4.6mに達し、現在の紋別市を含む紋別郡では1273戸が浸水、29戸の家屋が流出し、13名の尊い命が犠牲となった。この碑は、この大洪水で大被害を受けたため、兵村の安全を祈願し、この地に水天宮を祀ったことが記されている。
01609-001震嘯罹災記念1933北海道幌泉郡えりも町字えりも岬170-9昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日未明、三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村(現えりも町)を襲い、えりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が発生した。津波は3回来襲し、3回目の波高は14.2mにも達し、死者13名、負傷者56名、家・建物の倒壊90棟などの被害があった。
01609-002震嘯罹災記念1933北海道幌泉郡えりも町字庶野524昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日未明、三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村(現えりも町)を襲い、えりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が発生した。津波は3回来襲し、3回目の波高は14.2mにも達し、死者13名、負傷者56名、家・建物の倒壊90棟などの被害があった。碑は倒壊の恐れがあったため平成9年に補修され、説明板が整備された。
01649-001浦幌川災害復旧改修記念碑1978北海道十勝郡浦幌町字常室51番地10昭和50年洪水(1975年5月17日)洪水昭和50年(1975)5月の低気圧による降雨は、連続雨量が171mmに達し、浦幌では大正11年(1922)8月に次ぐものであった。折から融雪後期の出水とともに浦幌川が激流となり、家屋浸水90戸、田畑流失・浸水1250ヘクタール等の重大な被害を与えた。
01649-002浦幌川流域災害復旧記念碑1990北海道十勝郡浦幌町字活平231番地1地先昭和63年洪水(1988年11月24日~25日)洪水昭和63年(1988)11月、道東を襲った低気圧による豪雨は浦幌町で152mmという記録的な降雨量となり、異常出水となった浦幌川は、氾濫、決壊、河道変動をもたらし、家屋浸水34戸、農地流失192ヘクタール等の重大な被害を与えた。
02203-001震嘯災記念碑1933青森県八戸市大字湊町(館鼻公園)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、大地震が発生した。その後、海のかなたから大きな音が響くと瞬く間に大津波が襲来し、一瞬で多くの命、財産を奪った。この昭和三陸地震の災害を忘れることなく警戒と予防に努めること。「地震海鳴りほら津波」
02207-001津波の碑2014青森県三沢市三川目四丁目145番地552号昭和三陸地震(1933年3月3日) 東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日、東日本大震災によって三沢市は7メートルを超える津波に襲われた。2名の尊い命が失われ、家屋188棟が大きな被害を受けた。この「津波の碑」には、東日本大震災記念碑と、昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震の震嘯災記念碑から移設した碑文が設置され、震災の記憶を後世に伝える。
02207-002震嘯災記念碑1933青森県三沢市四川目三丁目昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、大地震が発生した。その後、海のかなたから大きな音が響くと瞬く間に大津波が襲来し、一瞬で多くの命、財産を奪った。この昭和三陸地震の災害を忘れることなく警戒と予防に努めること。「地震海鳴りほら津波」
02321-001大然部落遭難者追悼碑1951青森県西津軽郡鰺ヶ沢町一ツ森町字崩ヶ沢雪泥流(1945年3月22日)洪水・土砂災害・その他昭和20年(1945)3月22日深夜、前日からの長雨により山岳急斜面の雪土が崩落し、赤石川上流の流れを塞ぎ止めた天然ダムが豪雨により決壊し大きな雪泥流となって旧赤石村の大然集落に押し寄せ、20戸あまりをことごとく押し流し、死者88名生存者わずか16名の大惨事となった。
02412-001震嘯災記念碑1933青森県上北郡おいらせ町松原一丁目昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、大地震が発生した。その後、海のかなたから大きな音が響くと瞬く間に大津波が襲来し、一瞬で多くの命、財産を奪った。この昭和三陸地震の災害を忘れることなく警戒と予防に努めること。「地震海鳴りほら津波」
02442-001十勝沖地震慰霊碑1969青森県三戸郡五戸町大字豊間内字地蔵平1968年十勝沖地震(1968年5月16日)土砂災害・地震昭和43年(1968)5月16日午前9時49分ごろ、青森県を中心に東北、北海道の一帯は激しい地震に襲われた。この1968年十勝沖地震によって、五戸町では、家屋の倒壊や山崩れ、田畑の埋没など大きな被害が発生し、土砂災害により11名の命が奪われた。
02446-001海嘯記念碑1933青森県三戸郡階上町大字道仏字大蛇(大蛇小学校)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、昭和三陸地震が発生、その約40分後に大津波が襲来した。階上では死者行方不明者3名、流失家屋199戸、そのほか漁船の流失など大きな被害があった。住民は、この災害を心に深く刻みつけて将来に備えること。
02446-002東日本大震災記念碑2011青森県三戸郡階上町大字道仏字大蛇(大蛇小学校)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日、東日本大震災の大津波襲来から尊い人命を守ったのは、 過去の津波経験から生まれた言葉 「ほら逃げろ津波の時は線路まで」。階上町では10mを超える津波が襲い、家屋の倒壊や漁船の転覆など多くの被害があったが、死者、行方不明者はいなかった。
02446-003震嘯災記念碑1933青森県三戸郡階上町大字道仏榊山昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、大地震が発生した。その後、海のかなたから大きな音が響くと瞬く間に大津波が襲来し、一瞬で多くの命、財産を奪った。この昭和三陸地震の災害を忘れることなく警戒と予防に努めること。「地震海鳴りほら津波」
03202-001大海嘯記念(津波記念碑)1934岩手県宮古市田老字館が森155番地2昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波「大地震の後には津波が来る。ここで1時間我慢せ。高い所へにげろ。」昭和8年(1933)3月3日、午前2時30分ごろ昭和三陸地震が発生し、続いて大津波が襲来した。田老村の被害は、流失505戸、溺死者911名、負傷者122名。
03202-002大海嘯記念(津波石碑)1934岩手県宮古市日立浜町(浄土ヶ浜屏風岩の下)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波「大地震の後には津波が来る。遠くへ逃げるより高い所へ。」昭和8年(1933)3月3日、午前2時30分ごろ昭和三陸地震が発生し、続いて3時ごろ大津波が襲来した。宮古町の被害は幸い少なく、流失4戸、溺死者2名。
03202-003大津浪記念碑(津波石碑)不明(1934?)岩手県宮古市重茂姉吉明治三陸地震(1896年6月15日) 昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな」重茂姉吉地区の生存者は明治三陸地震(1896)2人、昭和三陸地震(1933)4人、2度とも集落は全滅した。碑の教訓を守り、東日本大震災では家屋に被害はなかった。
03209-001昭和22年9月 カスリン台風洪水水位 昭和23年9月 アイオン台風洪水水位2007岩手県一関市駅前 (一ノ関駅 西口)カスリーン台風(1947年9月) アイオン台風(1948年9月)洪水昭和22年(1947)、北上川流域を襲ったカスリーン台風。それからちょうど1年後、アイオン台風が猛威をふるった。二つの台風によって北上川とその支流が氾濫し、岩手県内は2年連続の大水害に見舞われ、一関市は、磐井川堤防の決壊により死者・行方不明者573名の大被害を受けた。
03209-002昭和22年9月 カスリン台風洪水水位 昭和23年9月 アイオン台風洪水水位2007岩手県一関市柳町2-5(一関市東口交流センター敷地内)カスリーン台風(1947年9月) アイオン台風(1948年9月)洪水昭和22年(1947)、北上川流域を襲ったカスリーン台風。それからちょうど1年後、アイオン台風が猛威をふるった。二つの台風によって北上川とその支流が氾濫し、岩手県内は2年連続の大水害に見舞われ、一関市は、磐井川堤防の決壊により死者・行方不明者573名の大被害を受けた。
03209-003昭和22年9月 カスリン台風洪水水位 昭和23年9月 アイオン台風洪水水位2008岩手県一関市川崎町薄衣法道地42-3(道の駅かわさき)カスリーン台風(1947年9月) アイオン台風(1948年9月)など洪水一関市川崎町は北上川と支流の砂鉄川・千厩川に囲まれており、北上川の水位上昇により度々水害を被ってきた。特に1947年のカスリーン台風と翌年のアイオン台風では連続して大水害に見舞われ、家屋・道路・農作物など未曾有の大被害を受けた。その後も砂鉄川周辺では頻繁に浸水被害が発生している。
03209-004祭畤被災地展望の丘2010岩手県一関市厳美町市野々原岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)土砂災害・地震平成20年(2008)6月14日、祭畤大橋の北1.5km深さ約8kmを震源とするマグニチュード7.2(最大震度6強)の岩手・宮城内陸地震が発生した。この地震により、17名の尊い命が奪われ6名の行方不明者と426名の負傷者にのぼる人的被害をはじめ、大規模な土砂崩れなど、栗駒山周辺の山間部を中心に甚大な被害を受けた。震源地付近のここ一関市厳美町では、地すべりにより落橋した祭畤大橋や、川がせき止められた様子を見ることができる。
03210-001鶴樹神社の海嘯溺死霊供養塔1897岩手県陸前高田市広田町字根岬明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われる。旧廣田村での津波による死者は518名(全人口の25%)、全壊・流出等戸数は166戸(全戸数の49%)に達している。
03210-002明下の招魂供養塔不明岩手県陸前高田市広田町字明下明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われる。旧廣田村での津波による死者は518名(全人口の25%)、全壊・流出等戸数は166戸(全戸数の49%)に達している。
03210-003大陽の津波溺死紀念碑不明岩手県陸前高田市広田町字大陽明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われる。同所は津波関連石碑2基を含む計7基により大陽石碑群を形成している。
03210-004慈恩寺の海嘯招魂碑1898岩手県陸前高田市広田町字泊明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治三陸地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われ、静かだった海が突然うなり、津波が襲ってきたことが記されている。石碑は東日本大震災において倒壊したが、地元住民等の努力によって再建された。
03210-005前花貝の海嘯溺死漂着者碑不明岩手県陸前高田市広田町字前花貝明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われる。石碑の東側広がる大野海岸には30~40人の「流れ仏」が漂着したとのことである。近くにはその他2基の津波石碑がある。
03210-006華蔵寺の弔海嘯赤痢亡霊碑1900岩手県陸前高田市小友町字門前明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われる。旧小友村での津波による死者は210名(全人口の27%)、全壊・流出等戸数は82戸(全戸数の68%)に達している。
03210-007華蔵寺の海嘯溺死供養塔不明岩手県陸前高田市小友町字門前明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波地震は午後6時50分頃から小さい揺れが長く続き、大津波は8時7分に襲来したことから、「前触れなき大津波」とも言われる。旧小友村での津波による死者は210名(全人口の27%)、全壊・流出等家屋は82戸(全戸数の68%)に達している。
03210-008華蔵寺の弔海嘯溺死霊碑不明岩手県陸前高田市小友町字門前昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和三陸地震は午前2時31分頃に強く揺れ、最大の津波はその数分後に大砲のような音をたてて大津波が襲来した。旧小友村での津波による死者は11名、被害棟数は226戸に達している。
03210-009湊の津波記念碑1934岩手県陸前高田市気仙町字月山昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和三陸地震は午前2時31分頃に強く揺れ、最大の津波はその数分後に大砲のような音をたてて大津波が襲来した。長部漁港の被害は甚大で5戸を残し流出・倒壊した。「不時の津波に不断の用心」など6つの教訓が刻まれている。米崎町にもあった同様の石碑は東日本大震災に係る津波により流出した。
03210-010広田小学校の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字大久保明治三陸地震(1896年6月15日) 昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波明治三陸地震では旧廣田村で518名が死亡、昭和三陸地震では26名が死亡した。「大地震の後には津波が來るよ」「地震があったら高所へ集まれ」「津波と聞いたら欲捨て逃げろ」「低い所に住家を建てるな」と刻まれている。すぐ近くには東日本大震災津波到達地点記念碑も平成25年に建立された。
03210-011長洞の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字長洞昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。近くには東日本大震災に係る津波到達地点の塔も設置されている。
03210-012後花貝の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字後花貝昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。この津波による旧廣田村の死者は26名、被害棟数は469戸。
03210-013泊の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字泊昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。東日本大震災により倒れたが、原位置近隣に再び建てられている。
03210-014中沢の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字中沢昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。石碑周辺の中沢浜貝塚は歴史防災公園として整備され、指定緊急避難場所となっている。
03210-015根岬の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字根岬昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。この津波による旧廣田村の死者は26名、被害棟数は469戸。
03210-016六ヶ浦の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字六ヶ浦昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。この津波による旧廣田村の死者は26名、被害棟数は469戸。
03210-017大陽の津波記念碑1934岩手県陸前高田市広田町字大陽昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波四角い石碑の各面に「地震があったら津波の用心」「それ津波機敏に高所へ」「低い所に住家を建てるな」「津波と聞いたら欲捨てて逃げろ」と刻まれている。同所は津波関連石碑2基を含む計7基により大陽石碑群を形成している。
03211-001津浪記念碑1935岩手県釜石市片岸町(室浜)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和三陸地震(1933) は午前2時30分に発生し、津波はこの地に午前3時に襲来した。 「大地震の後には津波が来る」と刻まれている。 ※現在、東日本大震災(2011)の津波により倒れている。 
03211-002津浪記念碑1935岩手県釜石市片岸町(室浜)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和三陸地震(1933) は午前2時30分に発生し、津波はこの地に午前3時に襲来した。 「大地震の後には津波が来る」と刻まれている。
03211-003忠烈永芳1928岩手県釜石市箱崎町(箱崎)明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治三陸地震(1896)の際に上閉伊郡箱崎小学校の教員だった栃内泰吉の行動を後世に伝えるために建立した石碑。箱崎、桑ノ浜、白浜、仮宿、大仮宿各地区の被害者は計173名であり、建立時の昭和3年は33回忌にあたる。
03211-004津浪記念碑1935岩手県釜石市両石町昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和三陸地震(1933) は午前2時30分に発生し、津波はこの地に午前3時に襲来した。 「大地震の後には津波が来る」と刻まれている。
03211-005津浪記念碑(海嘯萬人供養塔)1897岩手県釜石市大只越町(大只越公園)明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波大只越公園内には、明治29年(1896)6月15日の明治三陸地震による津波被害に関する記念碑4基とお地蔵様が建立されている。写真の海嘯萬人供養塔は1897年に建立。
03461-001明治29年津波記念碑1909岩手県上閉伊郡大槌町末広町明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治29年(1896)6月15日の夜半に襲ってきた大津波により、瞬間にして600名余りが亡くなり、人家560余戸が奪い去られた。
03461-002昭和8年3月3日大海嘯記念碑1934岩手県上閉伊郡大槌町末広町昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前3時に襲来した高さ十五尺(約4.5メートル)の大津波により、溺死者61名、流失倒壊家屋622戸の被害。「地震があったら津波の用心」「津波が来たら高い所へ逃げよ」「危険地帯に住居するな」
03482-001津波犠牲者慰霊碑2019岩手県下閉伊郡山田町八幡町269、270番東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し巨大な津波が町を襲った。山田町の死者・行方不明者825人。沿岸地域の家屋45.8%が全壊し、一部損壊まで含めると55.8%が被害を受けた。
03482-002大海嘯記念1934岩手県下閉伊郡山田町船越昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、強い地震があり、3時頃より高さ10mの大津波が襲来。 3時10分頃最も被害があった。船越区は流失23戸、半壊1戸、死者3名。田ノ浜区は流失183戸、半壊2戸、死者2名。大浦区は流失5戸、半壊14戸。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集まれ」など5つの教訓を刻む。
03482-003三陸大海嘯溺死者慰霊塔1934岩手県下閉伊郡山田町船越(海蔵寺)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日(旧2月8日)午前3時10分に津波が襲来した。旧船越村の被害は、流失戸数211戸、半壊戸数17戸、溺死者5名。※東日本大震災(2011)の津波により転倒。
03482-004大海嘯記念1934岩手県下閉伊郡山田町船越田の浜昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、強い地震があり、3時頃より高さ10mの大津波が襲来。3時10分頃最も被害があった。船越区は流失23戸、半壊1戸、死者3名。田ノ浜区は流失183戸、半壊2戸、死者2名。大浦区は流失5戸、半壊14戸。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集まれ」など5つの教訓を刻む。※東日本大震災(2011)の津波により転倒。
03482-005三陸大海嘯記念1934岩手県下閉伊郡山田町大沢第8地割昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、強い地震(昭和三陸地震)があり、3時頃より高さ10mの大津波が襲来。 3時10分頃最も被害があった。旧大沢村の被害は、流失72戸、半壊33戸、溺死者1名。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集まれ」など5つの教訓を刻む。
03482-006海嘯記念碑1896岩手県下閉伊郡山田町大沢第8地割明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治29年(1896)6月15日午後8時、明治三陸地震が起こり、津波が襲来した。旧大沢村の被害は、溺死者男163名、女253名、合計416名。
03482-007三陸大海嘯溺死者慰霊塔1934岩手県下閉伊郡山田町大沢第8地割昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前3時10分、昭和三陸地震による津波が襲来した。旧大沢村の被害は、流失戸数72戸、溺死者1名。
03482-008東日本大震災大沢地区慰霊碑2016岩手県下閉伊郡山田町大沢第8地割東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日午後2時46分に発生した、東日本大震災の大津波により大沢地区で犠牲となった、119名の鎮魂と災害の記憶を後世に伝える。「命を守る五の誓い」として、「子どもや孫の代まで千年こえて語り継げ」「大きな地震のあとは、必ず津波がやってくる」などの教訓を刻む。
03482-009津浪記念1935岩手県下閉伊郡山田町八幡町昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日、昭和三陸地震によって発生し三陸沿岸に襲来した大津波により、旧山田町では死者7名、傷者26名、流失家屋320余戸、流失船舶270隻の被害となった。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集まれ」など5つの教訓を刻む。
03482-010丙申海嘯之記1898岩手県下閉伊郡山田町後楽町明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治29年(1896)6月15日、明治三陸地震が発生し津波が襲来した。旧山田町の被害は、焼死者50余名、溺死者800余名。
03482-011大海嘯記念碑1899岩手県下閉伊郡山田町織笠第11地割明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治29年(1896)6月15日、明治三陸地震が発生し津波が襲来した。旧織笠村の被害は、溺死者72名、家屋56戸、船舶56隻、牛馬9頭、倉庫数十棟、橋梁2本、水田16町、陸田6町、宅地6町。
03482-012大海嘯記念1934岩手県下閉伊郡山田町織笠第11地割昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、強い地震(昭和三陸地震)があり、3時頃より高さ3~5mの大津波が襲来。旧織笠村の被害は、流失戸数1戸、半壊10戸、床上浸水60戸、溺死者6名。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集まれ」など5つの教訓を刻む。
03482-013未来の子らへ この桜より上へ逃げよ2014岩手県下閉伊郡山田町船越第10地割東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で浸水した、町立船越小の海抜18mのラインに桜を植えるとともに碑が建立された。「未来の子らへ この桜より上へ逃げよ」との教訓を刻む。
03482-014大海嘯記念1934岩手県下閉伊郡山田町船越第22地割(大浦)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、強い地震(昭和三陸地震)があり、3時頃より高さ10mの大津波が襲来。 3時10分頃最も被害があった。船越区は流失23戸、半壊1戸、死者3名。田ノ浜区は流失183戸、半壊2戸、死者2名。大浦区は流失5戸、半壊14戸。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら高い所へ集まれ」など5つの教訓を刻む。
03482-015鎮魂碑2015岩手県下閉伊郡山田町船越第22地割(大浦)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日の東日本大震災の大津波により、大浦・小谷鳥地区では、35名が犠牲となった。碑の台座には「この台座の下まで津波が来た」ことを刻む。
03484-001東日本大震災 羅賀大津波伝承の碑2017岩手県下閉伊郡田野畑村羅賀27-2明治三陸地震(1896年6月15日) 昭和三陸地震(1933年3月3日) 東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波2011年3月11日午後2時46分突然激しい地震に襲われ、3時25分頃に大津波が、その波が引かないうちに第2波が襲ってきた。羅賀地区での死者・行方不明者8名、流出損壊家屋127戸(166戸中)。「津波を甘くみないで より早く、より高い所へ逃げる事」。明治29年(1896)と昭和8年(1933)の津波記念碑も隣に移設されている。
03503-001海嘯遭難供養塔1928岩手県九戸郡野田村大字野田26-27明治三陸地震(1896年6月15日)地震・津波明治29年(1896)6月15日に発生した大津波による野田村の被害は、死者261名、負傷者62名、流失家屋138戸で、村の中心地の大部分が流失した。身元不明者の遺体が寺山の一角に埋葬されていると伝えられている。
03503-002津浪記念碑1934岩手県九戸郡野田村大字野田昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波昭和8年(1933)3月3日に発生した波高約5.5mの大津波により、野田村では死者8名、負傷者7名、流失住家58棟等の大被害となった。米田地区の綿津海神社にあったこの碑は、2011年の東日本大震災大津波によって流出したが、2016年に現在地に移設された。
03503-003東日本大震災 大津波記念碑2018岩手県九戸郡野田村大字野田東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波東日本大震災(2011)では、震度5弱を記録した野田村を最大約18mの津波が襲った。野田村では死者37名、村内住家の約1/3に当たる515棟が被害を受けた。「地震があったら津波を考える」「津波のときは高台に避難する」「避難したら絶対に戻らない」「避難場所や方法は家族や近所で相談しておく」「避難するときは隣近所に声がけをする」 5つの教訓を後世に伝えている。
04202-001石巻市北上地区慰霊碑及びモニュメント2018宮城県石巻市北上町十三浜字東田50-3東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波 東日本大震災(2011)で犠牲となられた方々への追悼・鎮魂及び震災の記憶の伝承のため、北上地区慰霊公園内に慰霊碑及びモニュメントを設置。 ご遺族からの寄付による慰霊塔「希望の鐘」及び「吉浜小学校慰霊碑」についても同地内に併設。
04202-002昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市鮎川浜寺前18-2昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 それや来た逃げよう此の場所へ」
04202-003昭和8年3月3日 大震嘯災記念碑不明宮城県石巻市雄勝町名振字東12-49昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心」 石碑の隣に、東日本大震災についての石碑(津波の教え石プロジェクト)も設置されている
04202-004昭和8年3月3日 大震嘯災記念碑1934宮城県石巻市北上町十三浜字立神4-1昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心」
04202-005昭和8年3月3日 大震嘯災記念碑1934宮城県石巻市北上町十三浜字小泊29昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心」
04202-006昭和8年3月3日 大震嘯災記念碑1934宮城県石巻市北上町十三浜字小指14昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心」
04202-007昭和8年3月3日 大震嘯災記念碑1934宮城県石巻市北上町十三浜字大指4-1昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓 碑文「地震があったら津波の用心」
04202-008昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市桃浦字寺下17昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 忘るな火の元の注意 先に老幼続いて避難第一」
04202-009昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市荻浜字家前17昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 忘るな火の元の注意 先に老幼続いて避難第一」
04202-010昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市小網倉浜戸根入道下昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓 碑文「地震があったら津波の用心 津波が来たらこれより高い所へ 危険区域内に居住をするな」
04202-011昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市谷川浜風越山1-34昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 津波が来たらこれより高い所へ 危険区域内に居住をするな」
04202-012昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市大谷川浜二重坂1-2昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 津波が来たらこれより高い所へ 危険区域内に居住をするな」
04202-013昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市小渕浜入の沢19昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 津波が来たらこれより高い所へ 危険区域内に居住をするな」
04202-014昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市十八成浜山下1-1昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 それや来た逃げよう此の場所へ」
04202-015石巻市雄勝地区慰霊碑及びモニュメント2019宮城県石巻市雄勝町雄勝字伊勢畑2-4東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波 東日本大震災(2011)で犠牲となられた方々への追悼・鎮魂及び震災の記憶の伝承のため、雄勝地区慰霊公園内に慰霊碑及びモニュメントを設置 同敷地内に京都伏見ロータリークラブから寄贈のモニュメントも設置されています
04202-016石巻市牡鹿地区慰霊碑及びモニュメント2019宮城県石巻市大原浜字町44東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波 東日本大震災で犠牲となられた方々への追悼・鎮魂及び震災の記憶の伝承のため、牡鹿地区慰霊公園内に慰霊碑及びモニュメントを設置
04202-017昭和8年3月3日 大震嘯記念碑不明宮城県石巻市鮎川浜金華山5昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波 昭和8年(1933)3月3日に発生した昭和三陸地震による大津波の教訓「地震があったら津波の用心 それや来た逃げよう五本松」
04207-001東日本大震災慰霊碑2014宮城県名取市閖上五丁目142 他東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波2011年3月11日、東日本大震災の地震発生(午後2時46分)から程なく、名取の地に午後3時52分、最大浸水高9.1mの大津波が押し寄せ、海岸から最大約5kmの範囲が浸水した。閖上(ゆりあげ)地区、下増田地区を中心に甚大な被害をもたらし、964名の市民をはじめとする多くの尊い命を奪った。
04207-002震嘯記念1933宮城県名取市閖上(日和山富士主姫神社脇)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波「地震があったら津波の用心」昭和8年(1933)3月3日午前2時30分、突然強い地震があった。揺れが収まった約40分後に異常な音とともに激流が襲来した。約3mの高さの水が名取川を遡上し、西は猿猴(えんこう)に到達し、南は貞山堀広浦一帯が氾濫した。浸水家屋20余戸。幸い人畜に死傷は出なかった。
04209-001多賀城市東日本大震災モニュメント2015宮城県多賀城市中央2丁目7番地内(多賀城駅前公園内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波東日本大震災(2011)で本市に来襲した津波は高さ約4.6m、死者は市内188人(市民156人)、市域の約3分の1(約662ha)が浸水した。被害の様相は「都市型津波被害」と呼ばれ、津波が臨海部の港湾や工業地帯、高密度な市街地を広域的に襲い、甚大で複雑な被害を与えた。
04214-001東松島市震災復興慰霊碑2017宮城県東松島市野蒜字北余景56-36東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波2011年3月11日14時46分に発災した東日本大震災により、東松島市では最大10.35mの津波が発生し、死者1,109人、行方不明24人、浸水面積37平方㎞(市面積の約30%)、住家14,581棟の被害が発生した。
04361-001鳥の海公園 鎮魂の碑2013宮城県亘理郡亘理町荒浜字隈崎9- 2(鳥の海公園内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日14時46分、マグニチュード9.0の大地震発生、15時52分に7m超の大津波が襲来。 荒浜地区犠牲者 151名(亘理町306名) 荒浜地区全半壊家屋 1150余棟一.「荒浜に津波は来ない」は幻想なり一.川の水 引けば津波だ大きいぞ一.此処よりも 高所を探して すぐ逃げろ一.油断して 途中で戻れば 命取り一.何よりも 命が大事 一番大事と心せよ
04404-001七ヶ浜町東日本震災慰霊碑2014宮城県七ヶ浜町代ヶ崎浜(七ヶ浜町公園墓地蓮沼苑敷地内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)東日本大震災が発生した。七ヶ浜町では震度5強、津波浸水高12.1m。人的被害(平成26.6.1現在)は七ヶ浜町内で72名が死亡、七ヶ浜町外で34名の町民が死亡、町民の行方不明及び震災関連死5名。町内で死亡が確認され現在身元不明な方が2名。津波浸水面積は町域面積の36.4%(4.8km2)に及び、約4,000の住家被害の他、地盤沈下、公共施設・農地等に大きな被害を受けた。
04581-001女川町東日本大震災慰霊碑2018宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波東日本大震災(2011)では女川町を震度6弱の揺れと高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲い、死者827名、外国人死者9名、震災関連死22名、住家被害3934棟などの甚大な被害をもらたした。
04581-002昭和八年三月三日大震嘯災記念1934宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川地内(女川交番脇)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波碑による教訓「大地震の後には津浪(波)が来る 地震があったら津浪の用心」大津波の来襲を受けた女川町では、死者1名(江島)、負傷者1名(石浜)、他町村における死者2名があり、全壊や流出を含む住家等の被害640戸のほか漁船の流出や漁具の破損等の甚大な被害があった。
04581-003昭和八年三月三日大震嘯災記念1934宮城県牡鹿郡女川町高白浜字高白地内(高白浜漁港内)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波碑による教訓「大地震の後には津浪(波)が来る 地震があったら津浪の用心」大津波の来襲を受けた女川町では、死者1名(江島)、負傷者1名(石浜)、他町村における死者2名があり、全壊や流出を含む住家等の被害640戸のほか漁船の流出や漁具の破損等の甚大な被害があった。
04581-019昭和八年三月三日大震嘯災記念 1934宮城県牡鹿郡女川町竹浦(五十鈴神社境内)昭和三陸地震(1933年3月3日)地震・津波「大地震の後には津浪(波)が来る 地震があったら津浪の用心」大津波の来襲を受けた女川町では、死者1名(江島)、負傷者1名(石浜)、女川町民の他町村における死者2名があり、全壊や流出を含む住家等の被害640戸のほか漁船の流出や漁具の破損等の甚大な被害があった。なお、隣には東日本大震災(2011年)に関する伝承碑(女川いのちの石碑 竹浦)も建立されている。
04581-004女川いのちの石碑 女川浜2013宮城県牡鹿郡女川町女川浜大原469-1(女川中学校校舎前)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「夢だけは 壊せなかった 大震災」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-005女川いのちの石碑 竹浦2013宮城県牡鹿郡女川町竹浦(五十鈴神社境内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「見上げれば がれきの上に こいのぼり」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。 なお、隣には昭和三陸地震(1933年)に関する伝承碑も建立されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-006女川いのちの石碑 宮ケ崎2014宮城県牡鹿郡女川町宮ケ崎(山祇神社境内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-007女川いのちの石碑 鷲神2014宮城県牡鹿郡女川町鷲神(コバルトライン入り口道路脇)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-008女川いのちの石碑 尾浦2014宮城県牡鹿郡女川町尾浦(保福寺入り口)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「とりもどそう 笑顔あふれる 女川町」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-009女川いのちの石碑 桐ケ崎2014宮城県牡鹿郡女川町桐ケ崎(高台移転住宅入り口)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「ガンバレと ささやく町の 風の音」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-010女川いのちの石碑 野々浜2016宮城県牡鹿郡女川町野々浜(高台移転住宅地内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「暗い夜 たくさんあるさ 希望の星」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-011女川いのちの石碑 高白浜2016宮城県牡鹿郡女川町高白浜(高台移転住宅内公園)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「忘れない この悲しみを 苦しさを」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-012女川いのちの石碑 指ケ浜2016宮城県牡鹿郡女川町指ケ浜(高台移転住宅東側)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「まっててね 今届けるよ おばあちゃん」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-013女川いのちの石碑 塚浜2017宮城県牡鹿郡女川町塚浜(高台移転住宅公園)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「故郷を 奪わないでと 手を伸ばす」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-014女川いのちの石碑 石浜2017宮城県牡鹿郡女川町石浜(高台移転住宅集会所前)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「愛すべき 未来のために 我が道を」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-015女川いのちの石碑 御前浜2017宮城県牡鹿郡女川町御前浜(高台移転住宅地内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「太平洋 女川町に 牙をむく」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-016女川いのちの石碑 小屋取浜2017宮城県牡鹿郡女川町小屋取浜(高台移転住宅入り口)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「将来は 小さな子どもに 今を伝える」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-017女川いのちの石碑 飯子浜2018宮城県牡鹿郡女川町飯子浜(高台移転住宅公園)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「取り戻せ 自然豊かな 女川を」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
04581-018女川いのちの石碑 大石原浜2020宮城県牡鹿郡女川町大石原浜(大石原集会所敷地内)東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波「一秒間 大切にする 我が命」 東日本大震災(2011)では女川町を高さ14.8m(浸水高18.5m、遡上高34.7m)の大津波が襲った。この女川いのちの石碑は、震災直後に女川第一中学校(現在の女川中学校)に入学した生徒らが、将来の津波被害を最小限にする取組の一つとして、地域住民と一体となり女川町内全ての浜に設置した石碑のひとつ。東日本大震災による津波到達地点より高い場所に設置されており、「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#miyagi)
05202-001水と緑の愛護の碑(破堤の地)2000秋田県能代市能代町昭和47年7月豪雨(1972年7月9日)洪水昭和47年(1972)7月5日からの大雨による大洪水により、7月9日13時25分に米代川の堤防が87mにわたり決壊した。これにより中川原地区の殆どの家屋が浸水し、流失するなどの大被害を被った。この碑はこの洪水で破堤した箇所に建立された。
05202-002最高水位標1994秋田県能代市能代町昭和47年7月豪雨(1972年7月9日)洪水昭和47年(1972)7月8日から9日の大洪水により、米代川の堤防が決壊し中川原地区の殆どの家屋が屋根まで浸水し、流失するなどの大被害を被った。標柱の「最高水位」の赤線は、この洪水で浸水した時の最高水位である地上から2.56mの高さを示している。
05202-003日本海中部地震大津波 殉難者慰霊碑不明秋田県能代市字大森山日本海中部地震(1983年5月26日)地震・津波昭和58年(1983)5月26日11時59分、能代市西方沖約80km、深さ14kmを震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生し、能代市では震度5を観測したほか、地震発生後まもなく大津波が来襲した。能代市における津波による死亡者は36人であり、このうち能代港では工事関係者が34人亡くなった。
05206-001合川南小学校児童地震津波殉難の碑1984秋田県男鹿市戸賀加茂青砂山道添70日本海中部地震(1983年5月26日)地震・津波昭和58年(1983)5月26日正午、日本海中部地震(マグニチュード7.7)が発生し、社会科見学にきていた合川南小学校(現:北秋田市)の4・5年生の児童45名が津波に遭遇し、13名が亡くなった。地区の人々も救助活動に参加し、碑は集落の人たちによって大切に守られている。
05206-002スイス人女性犠牲者の慰霊碑1986秋田県男鹿市戸賀塩浜壷ケ沢日本海中部地震(1983年5月26日)地震・津波昭和58年(1983)5月26日正午すぎ、日本海中部地震(マグニチュード7.7)による津波で数多くの犠牲者が出た。当地でもスイス人女性旅行者 マグダレーナ・ブランデンベルガーさん(当時38歳)が尊い命を失った。
05206-003日本海中部地震津波慰霊之碑1984秋田県男鹿市五里合神谷長者森日本海中部地震(1983年5月26日)地震・津波昭和58年(1983)5月26日正午、日本海中部地震が発生し、各地に多大の被害をもたらした。この地震の約20分後予期していなかった大津波が来襲し五里合地区において6名の尊い命が失われた。石碑の側面には、この地区に押し寄せた大津波の高さ(海抜6.89m)が刻まれている。
05206-004震災復興碑1942秋田県男鹿市五里合中石南浜野男鹿地震(1939年5月1日)地震昭和14年(1939)5月1日午後3時、男鹿地震が発生し、男鹿半島に甚大な被害を出した。この地震では死者27人、負傷者52人、住家全壊479戸の被害がでた。この碑は、その時の地震によって破壊された五里合地区の水理施設の復興を記念して建てられた。
05206-005日本海中部地震地震災害復旧記念碑1985秋田県男鹿市角間崎家ノ下字家ノ下54(男鹿市 若美コミュニティセンター・公民館敷地内)日本海中部地震(1983年5月26日)地震・津波昭和58年(1983)5月26日正午、日本海中部地震(マグニチュード7.7)が発生し多大な被害をもたらした。この地震による若美町(現:男鹿市)の被害は、農業関係97箇所、公共土木関係85箇所、住家全壊75戸、半壊208戸 総被害額 54億4400万円にのぼった。
05206-006地震塚不明秋田県男鹿市脇本富永寒風山文化7年の地震(1810年9月25日) 男鹿地震(1939年5月1日)地震男鹿半島を襲った地震や冷害についての石碑が並んでいる。最も古い石碑は文化7年(1810)の地震のもので、地震に遭遇した菅江真澄は「どこの村にも残っている建物はないほどほとんど倒壊してしまった」と記録している。また、昭和14年(1939)の男鹿地震では、死者28名、被害家屋1,663棟と大きな被害が出た。
05215-001田沢湖水害碑1966秋田県仙北市田沢湖生保内洪水・土砂災害(1960年8月3日)洪水・土砂災害昭和35年(1960)8月3日の集中豪雨により土石流が発生、沼田地区を流れる生保内(おぼない)川の堤防が決壊し、死者・行方不明者15名、全壊流失家屋25棟、半壊6棟、床上浸水452棟、床下浸水592棟に及ぶ大災害となった。
05348-001日本海中部地震大津波遭難者慰霊之碑1983秋田県山本郡三種町大口釜谷地内日本海中部地震(1983年5月26日)地震・津波昭和58年(1983)5月26日、日本海中部地震(マグニチュード7.7)により秋田・青森沖に津波が襲来した。この天災により、八竜地域では住宅134戸が全壊。慰霊碑には、津波で亡くなった旧八竜町民5名(釜谷浜で波にのまれた4名と能代港の石炭火力発電所用地造成現場で作業中不明となった1名)の名が刻まれている。
06364-001防災記念碑1979山形県最上郡真室川町大字木ノ下真室川災害(1975年8月6日)洪水・土砂災害昭和50年(1975)8月6日、町内上流域の集中豪雨により真室川の堤防が決壊し、大滝地区では土石流が発生した。死者4人、行方不明者1人、家屋全壊53戸、床上浸水331戸、耕地等の冠水は3,407haに及んだ。
06401-001羽越災害記念碑1984山形県西置賜郡小国町大字岩井沢704羽越水害(1967年8月28日)洪水・土砂災害昭和42年(1967)8月28日から29日にかけて降り続いた豪雨は日雨量532ミリを記録し大洪水となった。この未曾有の大災害により小国町では死者2名、家屋63棟全壊流失のほか、農地、交通通信施設など、被害額は当時の町予算20年分に及んだ。碑に当時の水位が刻まれている。
07205-0012011.3.11 東日本大震災 復興の記念碑2016福島県白河市葉ノ木平110番地東日本大震災(2011年3月11日)土砂災害・地震東日本大震災(2011)では白河市は震度6強の強い揺れを観測し、ここ葉ノ木平地区では、山の崩落で13人のほか、萱根地区では瓦の落下で1人、大信隈戸では土砂崩れで1人が巻き込まれ、市内合わせて15名が亡くなった。
07405-001大杉山村慶長地震遭難者供養塔1752福島県耶麻郡西会津町下谷字如法房慶長会津地震(1611年9月27日)土砂災害・地震慶長16年(1611)9月27日(旧暦8月21日)昼、会津地方を大地震が襲った。この地震により、飯谷山で大規模な地すべりが発生して山麓の大杉山村が土砂に埋まってしまい、100名を超える人々が亡くなった。
07542-001東日本大震災復興記念碑2015福島県双葉郡楢葉町大字北田字上ノ原地内東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日、東日本大震災によって巨大地震・大津波・福島第一原発事故が発生した。この大災害により楢葉町は、犠牲者13名、浸水面積2.6平方キロメートル、津波被災家屋125戸の被害を蒙った。復興への願いと希望の思いを記し、震災の記憶と震災で学んだ教訓を後世へ伝える。
07542-002東日本大震災慰霊碑2017福島県双葉郡楢葉町大字波倉字坊ノ下地内 龍蔵寺内東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日、東日本大震災によって楢葉町は震度6強の揺れと大津波に襲われた。波倉地区では、高さ十数メートルの津波により避難誘導中の消防団員を含む8名が犠牲になり、家屋の大部分(25軒)が流失した。犠牲者の御霊を慰め、津波の恐ろしさを後世に伝える。「大地震だ!津波が来るぞ!高台に逃げろ!」
07542-003ふるさと祈念碑2019福島県双葉郡楢葉町大字山田浜字後地内 旧津之神社内東日本大震災(2011年3月11日)地震・津波平成23年(2011)3月11日、東日本大震災によって楢葉町は震度6強の揺れと10メートルを超える大津波に襲われた。山田浜地区では、津波により1名が犠牲になり全家屋(25世帯)が流失した。更に、福島第一原発事故が発生。ふるさとを失った人々の安らかな繁栄ある生活を願い、震災の記憶を後世に伝える。
08201-001洪水記念1939茨城県水戸市柳河町(柳河小学校)昭和13年洪水(1938年6月ほか)洪水昭和13(1938)年6月の那珂川の氾濫により、柳河村では家屋の被害(半壊7軒、流出6軒、浸水が442軒)、千歳橋と万代橋が流出する被害が発生した。当時の戸数が460戸だったことから、ほとんどの世帯が被害を被った。この年は3ヶ月の間に3回の洪水が発生しており、被害を後世に残すよう、石碑には増水した水位が記されている。
08208-001要石建立由来之碑1956茨城県龍ケ崎市川原代町昭和16年第2次水害(1941年7月23日)洪水・土砂災害昭和16年(1941)7月21日に上陸した台風による暴風雨によって小貝川左岸堤防の決壊やがけ崩れが発生した。これにより、小通幸谷地区では22戸の家屋が倒壊した。
08208-002決壊口の跡1988茨城県龍ケ崎市川原代町台風による豪雨(1981年8月24日)洪水昭和56年(1981)8月24日に関東地方に直撃した台風第15号による暴風雨によって小貝川左岸堤防が決壊した。幸い犠牲者は1人も出さなかったが、田畑762.5haが冠水し、水稲被害は18億円に及んだ。
08211-001決壊の跡2017茨城県常総市三坂町平成27年9月関東・東北豪雨(2015年9月10日)洪水平成27年(2015)9月10日、関東地方から東北地方にかけて多数の線状降水帯が次々と発生し、鬼怒川で堤防が決壊した。市域の約3分の1が浸水、決壊地点では建物が流失し、浸水が解消するまでに10日間を要した。
08211-002水害復興の碑2018茨城県常総市本石下平成27年9月関東・東北豪雨(2015年9月10日)洪水平成27年(2015)9月10日、数日間降り続いた大雨により、若宮戸地先では、約1600mにわたり地形的に河畔砂丘であった無堤防区間の二箇所から溢水が始まり、若宮戸地区を含む玉地区全域が浸水した。
08211-003関東東北豪雨実績浸水深碑2016茨城県常総市水海道諏訪町3222番地3平成27年9月関東・東北豪雨(2015年9月10日)洪水平成27年(2015)9月10日、数日間降り続いた豪雨により鬼怒川堤防が決壊し、市域の3分の1が浸水した。この碑上部の横線が常総市役所水海道庁舎構内の浸水深を示している。
08211-004決壊口の跡碑1991茨城県常総市本豊田地先堤防中段上洪水(1986年8月6日)洪水昭和61年(1986)8月6日、台風10号がもたらした豪雨により小貝川堤防が決壊。本豊田・曲田・福二・三坂新田・沖新田・中山の集落で304棟299世帯が浸水被害を受け、田畑993haが水没した。
08211-005水災記念碑1938茨城県常総市橋本町明橋畔洪水(1938年7月1日)洪水昭和13年(1938)7月1日、小貝川豊田地先の堤防決壊により、旧水海道町域では全戸数の9割が水没した。上流の三妻・五箇・大生地区の被害も甚大で、3万6千8百人が救助されたという。
08211-006大洪水位記録碑不明茨城県常総市橋本町御城公園内洪水(1938年7月1日)(1941年7月24日)洪水昭和13年(1938)7月1日及び同16年(1941)7月24日に旧水海道町を襲った水災の水位を記録している。かつては明橋北側に「水災記念碑」と並んで設置されていたが、八間堀川の改修により堤防が嵩上げされるに至り、洪水水位記録を維持するため、現地に移された。
08233-001洪水の碑1989茨城県行方市玉造甲地先 洪水(1938年6月~7月)洪水昭和13年(1938)6月から7月にかけて、台風の影響を受けた前線による大雨が原因で霞ヶ浦の水位が上昇して洪水が発生。冠水被害は数十日にも及び、死者45人、床上・床下浸水81,739戸の大災害となった。
09202-001渡良瀬川とともに2000栃木県足利市岩井町カスリーン台風(1947年)洪水昭和22(1947)年9月14日から15日にかけて接近したカスリーン台風により、関東地方では大水害が発生。死者・行方不明者数は、利根川水系で1,100人にものぼり、そのうち渡良瀬川流域では約3分の2を占める709人、足利市でも319人が犠牲となった。石碑横にはシンボルタワーと市街地から移設された地蔵尊及び供養塔がある。
09214-001竣工記念1950栃木県さくら市大中キティ台風(1949年8月31日~9月1日)洪水昭和24年(1949)8月31日から翌9月1日にかけてのキティ台風により、鬼怒川の堤防が800mに渡って決壊した。濁流に襲われた大中集落は一夜にして鬼怒川の本流のようになった。第2次世界大戦後の5年に満たない間に発生した、4回目となる洪水であった。
09343-001逆川に大洪水あり不明栃木県茂木町大字小井戸台風第10号(1986年)洪水昭和61(1986)年8月4日夜半から5日未明にかけて、東日本を襲った台風10号による集中豪雨のため、逆川流域の茂木町市街地は、一夜のうちに水没し、浸水面積110ha、浸水家屋1,200戸という大きな被害を受けた。碑には当時の洪水位が記されている。
09343-002逆川改修記念碑1990栃木県茂木町大字飯台風第10号(1986年)洪水昭和61(1986)年8月5日未明、台風10号による豪雨のため、逆川流域は有史以来の大水害を被った。碑の近くには、当時の洪水位を記した洪水痕跡碑が設置されている。
10203-001水害殉難者供養塔1948群馬県桐生市新宿3丁目7-32定善寺境内カスリーン台風(1947年9月)洪水・土砂災害昭和22年(1947)9月、カスリーン台風が関東地方に接近して、群馬県に記録的な豪雨をもたらした。なかでも渡良瀬川流域では、赤城、足尾山地で土石流が発生し、桐生市では死者146名、住家流失213戸等の甚大な被害となった。碑には桐生市で殉難した方の名前が刻まれている。
10203-002桐生大水難霊供養塔1979群馬県桐生市菱町1丁目3020菱風園の手前カスリーン台風(1947年9月)洪水・土砂災害昭和22年(1947)9月15日、カスリーン台風により渡良瀬川桐生川が増水氾濫し、激流に押し流され、桐生市では死者146名、住家流失213戸、全壊139戸等被害があった。脇には殉難者の名前を刻んだ石板がある。
10203-003カスリーン台風伝承碑1956群馬県桐生市東5丁目広見橋たもと中村牛乳そばカスリーン台風(1947年9月)洪水・土砂災害碑文は「水波能賣神」のみ。昭和22年(1947)9月に関東地方に接近したカスリーン台風は、群馬県に記録的な豪雨をもたらした。桐生川の堤防も決壊し、東地区の家屋は床上浸水に遭い、多くの家財を流失した。その被害を後世に伝える碑として建立。
10207-001修堤碑1911群馬県館林市下早川田町明治43年の大水害(1910年8月11日)洪水明治43年(1910)8月上旬、連日の暴風雨で渡良瀬川が増水した。住民は懸命に水防活動を行ったが、11日午前11時頃に下早川田町の堤防が約114m決壊し、周辺は約60cm床上浸水した。ほかにも堤防の決壊があり、旧館林町は全域水没した。
10207-002水害記念碑1911群馬県館林市傍示塚町明治43年の大水害(1910年8月11日)洪水明治43年(1910)8月、豪雨が降り続き諸河川が氾濫して数千人の死傷者が出た。渡良瀬川と利根川も洪水となり、11日午前10時頃に矢場川の堤防が傍示塚町で約87m決壊、住家12戸25棟が押し流された。決壊による死者はなかったが、周辺は約60cm床上浸水した。
11210-001決壊口跡1950埼玉県加須市新川通カスリーン台風(1947年9月)洪水昭和22年(1947)9月、カスリーン台風が関東地方を襲い、16日未明にこの地で堤防が決壊し、その濁流は東京まで到達した。未曾有の大災害により利根川流域では死者1,100人、家屋浸水303,160戸、家屋の倒半壊31,381戸の甚大な被害をもたらし、碑文には治水事業がとても大切であることが記されている。
11210-002決壊口跡1950埼玉県加須市向古河カスリーン台風(1947年9月)洪水昭和22年(1947)9月、カスリーン台風が関東地方を襲い、16日未明にこの地で堤防が決壊し、二つの村を水底に浸して多数の人命と家屋が奪われた。この地域では、昭和10年(1935)と昭和16年(1941)にも大洪水に襲われており、碑文には治水事業がとても大切であることが記されている。
11210-003利根川治水記念碑1989埼玉県加須市新川通カスリーン台風(1947年9月)洪水昭和22年(1947)9月に襲来したカスリーン台風は未曽有の豪雨をもたらし、利根川流域において、死者1,100人、家屋浸水303,160戸、家屋の倒半壊31,381戸の甚大な被害をもたらした。碑文には、首都圏の安全のために、治水事業が引き続きとても大切であることが記されている。
11210-004石橋供養塔・水災記念之碑1911埼玉県加須市水深(江川堀・稲荷橋)明治43年の大水害(1910年8月)洪水明治43年(1910)は、梅雨の頃から7月にかけて雨が多かった。8月になると豪雨が続き、利根川・荒川は氾濫して堤防が決壊した。濁流が阿良川堤に押し寄せて水利組合が警報を発したが、堤は遂に破られ、この辺り一面は泥海となった。安永2年(1773)建立の供養塔に明治44年(1911)に水災記念が加えられている。
11210-005石橋供養塔・降砂洪水記録之碑1791埼玉県加須市水深(青毛堀川・枚橋)天明3年浅間山噴火(1783年) 天明6年の大洪水(1786年)洪水・火山災害天明3年(1783)の浅間山噴火による降灰により、利根川などの川床が上昇した。天明6年7月13日から16日(1786年8月6日から9日)まで大雨となり、諸河川の氾濫をもたらした。翌年は、前年の水害と天候不順により凶作となり飢饉となった。
11210-006水量抗記念碑1911埼玉県加須市町屋新田(大神社)明治43年の大水害(1910年8月)洪水明治43年(1910)8月に大洪水が発生して甚大な被害となった。将来にむけて注意を促すため、石碑の上面がこの大洪水時の水位となるよう設置された。
11210-007明治四十三年大洪水記念碑1911埼玉県加須市花崎(鷲宮神社)明治43年の大水害(1910年8月)洪水明治43年(1910)は7月下旬からずぶ濡れになるほどの雨が降り、8月11日に止んだ。この大雨により利根川・荒川の堤防の多くが決壊し、関東は稀にみる大洪水となった。死傷者や家畜の被害は数えることができないほど多く、田んぼや家も流された。
11210-008水害復旧竣功記念碑1950埼玉県加須市川口(神明社)カスリーン台風(1947年9月)洪水昭和22年9月16日未明、島川では堤防が6箇所で決壊し、洪水は旧東村全体に及び、濁流は東京まで達した。ここ川口では上流で1箇所、下流で2箇所が決壊し、家屋の流失倒壊4戸、床上浸水100戸余、耕地約100ヘクタールはすべて冠水して収穫は概ね皆無となるなど、甚大な被害となった。
11210-009昭和二十二年大洪水記念碑1950埼玉県加須市南篠崎(神明社)カスリーン台風(1947年9月)洪水昭和22年9月16日未明、島川では堤防が6箇所で決壊し、洪水は南篠崎の一画を除いて旧東村全体に及んだ。家屋は流失倒壊8戸、半壊25戸、床上浸水600戸あまり、耕地は30ヘクタールあまりが埋没・流失し、収穫皆無の田畑は7割を超えた。
11210-010水害復旧記念碑1951埼玉県加須市南大桑(東岡集会所)カスリーン台風(1947年9月)洪水昭和22年(1947)9月16日未明、島川の堤防が6箇所で決壊し、洪水は旧東村全体に及んだ。南大桑では観音堂の堤防及び西岡地内1箇所で決壊し、家屋の流出は1戸、半壊数戸、床上浸水200戸あまり、耕地200ヘクタールあまりがすべて冠水し、作物の収穫はほとんどなくなった。
11210-011洪水記念碑1911埼玉県加須市阿良川(天神社)明治43年の大水害(1910年8月)洪水明治43年(1910)7月下旬から8月11日まで続いた長雨により河川が増水して氾濫し、関東諸国は最も悲惨な状況となった。被害は、北葛飾・南埼玉両郡を過ぎて東京まで広がり、数日の間、水没は続いた。
11210-012寛保二年水難供養塔1774埼玉県加須市中ノ目(中ノ目橋北)寛保2年の大洪水(1742年8月)洪水寛保2年7月27・28日(1742年8月27・28日)と雨が降り続き、8月1日(1742年8月30日)の夜中に大雨となった。翌2日の朝には、加須市志多見の阿良川地内では、水除け堤約90メートルが決壊した。利根川をはじめとする多くの諸河川の水が溢れ、被害は江戸までおよび、この地域でも洪水で多くの人が亡くなった。
11363-001寛保洪水位磨崖標1742埼玉県秩父郡長瀞町大字野上下郷1010付近荒川大洪水(1742年7月27日(旧暦)から4日間)洪水寛保2年(1742)、4昼夜降り続いた豪雨により荒川が氾濫し、この付近一帯はことごとく水没した。後日、地元の有志2人が当時の水位を岩肌に「水」の文字で刻んだ。そのほかにも文字が刻まれていたが、現在は大きい「水」の字以外は判読が困難である。
12224-001震災記念1924千葉県鎌ケ谷市新鎌ケ谷二丁目関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した大地震(関東大震災)は、京浜を中心に家屋消失32万戸死者10万人以上の大被害をもたらしたが、わが村は建物被害は極めて少なく死者はなかった。有志にて記念碑を建設し後生に伝える。
12421-001延宝の津波供養塔1694千葉県長生郡一宮町東浪見4738延宝の津波(1677年10月9日)地震・津波延宝5年(1677)10月に発生した延宝房総沖地震により津波が発生、現在の宮城県から静岡県伊豆東海岸までを襲った。この津波により東浪見地区では流された家屋は数知れず、143名の命が奪われた。
12421-002宮原の水害碑1917千葉県長生郡一宮町宮原645付近宮原の大水害(1916年7月30日)洪水大正5年(1916)7月30日、25日頃から降り続いた雨で一宮川の宮原堤防が決壊した。死者は出なかったが、2軒の家が流され、3軒の家が傾いたほか、耕地もあらわれた。
13101-001工部大学校阯碑1939東京都千代田区霞が関3-2-2 文部科学省構内関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は死者10万人、全壊・全焼30万棟を超える日本史上最大の自然災害であった。この地にあった過去に工部大学校として使われた建物も倒壊し、復興事業で文部省や会計検査院などが建てられた。碑は倒壊した建物のレンガなどで作られている。
13101-002震災記念の碑1924東京都千代田区神田駿河台3-2関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は死者10万人、焼失家屋20万棟を超える大災害であった。周囲が焼け野原となった中、ここにあった鉄筋コンクリート4階建の学校が焼け残り、避難所等として大いに役に立ったことは天の助けだったとして、イチョウの木を植えて感謝の意を表した。
13101-003防火守護地の碑1968東京都千代田区神田和泉町 和泉公園関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は死者10万人を超える日本史上最大の自然災害であった。特に火災による被害が大きく、20万棟以上の家屋が全焼した。しかし、この付近一帯は、震災直後に町の人が一致協力して消火と延焼を防ぐ努力を長時間続けたことにより焼失をまぬがれた。
13101-004昭和天皇御野立所の碑不明東京都千代田区北の丸公園1番関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は死者10万人を超える大災害で、遷都の噂が流れるほどであった。この地は昭和5年(1930)、復興祝賀式典の前々日に下町一帯の復興状況を視察された昭和天皇が最初に立ち寄った場所。当時はここから東京湾まで見通すことができた。風化により平成元年(1989)再建。
13103-001関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑1994東京都港区台場1-10 お台場海浜公園関東大震災(1923年9月1日)地震・その他東京は関東大震災(1923)及び第二次世界大戦末期の空襲による甚大な犠牲を被った。この二度の被災により隅田川河口近くに位置した防波堤に、数多くの犠牲者が漂着したといわれ、1993年までこの地で慰霊祭が行われてきた。
13103-002震災記念聖観世音菩薩像1926東京都港区愛宕2-3-4 伝叟院関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災では火災が各地で発生し、新橋、愛宕、浜松町一帯が灰燼に帰した。芝区(現在の港区の一部)では世帯の半数近くが焼失し、この地(伝叟院)で死者を火葬に付した。
13104-001大震災紀念碑1929東京都新宿区新宿2-9-2関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では、旧四谷区でも死傷者168名燃火500戸などの被害があった。震災を記憶に留めるため、区内の新聞社を発起人に、区議会・町会・商業組合等103の賛助者・団体により建立された。「大震災紀念碑」の書は当時の増上寺法主による。
13104-002水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔1924東京都新宿区西早稲田2-1-14関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で、旧牛込区では死傷者105名全半壊926戸などの被害を受けたが、火災はほとんどなく比較的被害が少なかったため多くの避難民を受け入れた。碑は震災の死者を弔うため翌年建立された。二体の地蔵菩薩立像は高野山御廟橋から遷されたもの。
13107-001大正大震火災石原町遭難者碑1925東京都墨田区横網二丁目3関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大地震で起きた大火災は都市の大部分を焦土にした。なかでも本所区と深川区の被害が最も甚だしく、無数の人命が奪われた。当時の本所区石原町民約8000人中およそ7000人が焼死した。昭和6年(1931)移設。
13108-001波除碑1794東京都江東区木場6-13-13高潮(1791年9月4日(旧暦))高潮寛政3年(1791)9月3日に大雨が降り始め、翌日午前中の満潮時に暴風雨となり、深川洲崎一帯は高潮によって洲崎弁天や町場が流されて多数の死者・行方不明者が出た。このため一帯を明地とし、寛政6年12月に両端に碑を建てて後の水害に備えた。
13108-002波除碑1794東京都江東区牡丹3-33 平久橋西詰橋台地高潮(1791年9月4日(旧暦))高潮寛政3年(1791)9月3日に大雨が降り始め、翌日午前中の満潮時に暴風雨となり、深川洲崎一帯は高潮によって洲崎弁天や町場が流されて多数の死者・行方不明者が出た。このため一帯を明地とし、寛政6年12月に両端に碑を建てて後の水害に備えた。
13108-003大正六年海嘯横死者供養塔1917東京都江東区北砂4-22-6高潮(1917年10月1日)高潮大正6年(1917)9月30日から10月1日未明にかけて東京地方を襲った台風により沿岸地帯は高潮に見舞われ、江東区のほぼ全域が床上浸水の被害を受けた。犠牲者147名の慰霊のために本碑が建立された。
13108-004砂村波除地蔵由来碑1918東京都江東区南砂2-23-9高潮(1917年10月1日)高潮大正6年(1917)9月30日から10月1日未明にかけて東京地方を襲った台風により沿岸地帯は高潮に見舞われ、江東区のほぼ全域が床上浸水の被害を受けた。多数の犠牲者を供養するために地蔵尊を祀った旨の由来碑が大正7年3月に建立された。
13108-005関東大震災横死者供養塔1935東京都江東区東陽3-8-11 沢海橋第二児童遊園関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は、首都圏に死者10万人、住居焼失者200万人を超える日本の地震災害史上最大の被害をもたらした。本碑は横死者の供養のために建立された。
13108-006大震災殃死者紀念碑1935東京都江東区白河2-7-10関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は、首都圏に死者10万人、住居焼失者200万人を超える日本の地震災害史上最大の被害をもたらした。本碑は横死者の十三回忌にあたって昭和10年(1935)9月1日に建立された。
13108-007地蔵菩薩大慈大悲碑1925東京都江東区富岡1-15-1関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の大震火災は、首都圏に死者10万人、住居焼失者200万人を超える日本の地震災害史上最大の被害をもたらした。本碑は横死した49名の供養のため、大正14年8月24日に建立された。
13108-008蔵魄塔・関東大震災殃死者慰霊塔1925東京都江東区平野2-4-25関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は、首都圏に死者10万人、住居焼失者200万人を超える日本の地震災害史上最大の被害をもたらした。浄心寺境内は臨時火葬所となり、大正14年8月30日に設置された塔内に遺灰が納められた。五十回忌供養にあたり昭和48年に新たな碑が建立された。
13219-001多摩川決壊の碑1999東京都狛江市猪方四丁目多摩川水害(1974年8月31日~9月3日)洪水昭和49年(1974)台風16号の影響で多摩川の水位が上昇し、この増水により、二ヶ領宿河原堰の取付部護岸の一部が破壊された。激しい迂回流により高水敷が浸食され、本堤防が決壊し、家屋19棟が流失する被害をもたらした。
14217-001文命東堤碑1726神奈川県南足柄市怒田1912番地洪水(1708年、1711年、1734年)洪水宝永4年(1707)に富士山が噴火し、大量の火山灰により酒匂川の川床が浅くなったため、宝永5年(1708)、正徳元年(1711)、享保19年(1734)に堤防が決壊し、下流の村々は大きな被害を受けた。
14321-001関東大震災伝承碑不明神奈川県高座郡寒川町田端824関東大震災(1923年9月1日)地震関東大震災(1923)で破損した鳥居。石柱に「嗟呼 大正十二年九月一日之大震災」と刻まれている。左奥の一本にはこの鳥居の建設年代とみられる「治四拾五年五月建之」の文字が残り、明治の末年にこの鳥居が作成されたものと推定される。
14321-002大震災記念碑1926神奈川県高座郡寒川町一之宮1-21-10関東大震災(1923年9月1日)地震関東大震災(1912)の記念碑。碑の正面には大地震の発生日時、背面には寒川村一之宮地区176戸のうち164戸が全壊12戸が半壊したこと、被害額、死傷者の名前などが書かれている。
14321-003大震災記念碑不明神奈川県高座郡寒川町宮山3916関東大震災(1923年9月1日)地震安政2年(1855)の安政江戸地震、大正12年(1923)の関東大震災の二度に渡り倒壊した高さ一丈一尺(約3.3m)柱間一丈(約3m)の明神鳥居が、当時を忍び設置されている。
14321-004大震災記念碑1925神奈川県高座郡寒川町倉見47関東大震災(1923年9月1日)地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災は本県を中心に一府四県に渡り惨状は極限に達した。倉見では132戸中94戸が全壊、38戸が半壊、12名の死者を出した。地震は数か月に及び翌1月15日午前5時の地震は最も激しい地震だった。恐るべきは天災地震である。
14321-005大震災記念碑1924神奈川県高座郡寒川町宮山2820-1関東大震災(1923年9月1日)地震関東大震災(1923)では本村でも惨状を極め、焼失3戸全壊26戸半壊1戸、死者1名、負傷者3名が出た。大工職の父子は住民の家屋の復旧のために尽力し、町民は安住の場所を得た。その功績を讃えている。
15100-0017.17水害浸水標2017新潟県新潟市北区東栄町1-1-15 新潟市豊栄地区公民館地内7.17水害(下越水害)(1966年7月17日)洪水昭和41年(1966)7月17日、下越地方は記録的な豪雨で加治川等の堤防が切れ、南は福島潟、北は紫雲寺町付近の広範囲が浸水した。両側ポールの赤い線は水害時の水位。旧豊栄町 死者重軽傷者67名 全半壊503戸 床上浸水1810戸 床下浸水1410戸
15100-002みちびきの像1967新潟県新潟市中央区1番堀通町3-13 新潟県民会館地内新潟地震(1964年6月16日)地震・津波昭和39年(1964)の新潟地震では26名が亡くなり、津波と液状化で広く浸水し港では火災が発生した。この像は地震当時をしのびそのさなかに具現された師弟間の愛情の交流の美しさを後の世まで伝えようとするものである。
15100-003曽川切れ記念碑1986新潟県新潟市江南区楚川132-1地先水害(曽川切れ)(1917年10月2日)洪水大正6年(1917)10月2日、連日の大雨により曽川の堤防二百メートルが決壊し、鳥屋野潟周辺、一市一町五個村の亀田郷一帯を修羅場と化した。浸水家屋数千戸、収穫を目前に冠水した田畑三千余ヘクタールその被害は量り知れないものであった。
15100-004曽川切れ跡1986新潟県新潟市江南区楚川132-1地先水害(曽川切れ)(1917年10月2日)洪水大正6年(1917)10月2日、連日の大雨により曽川の堤防二百メートルが決壊し、鳥屋野潟周辺、一市一町五個村の亀田郷一帯を修羅場と化した。浸水家屋数千戸、収穫を目前に冠水した田畑三千余ヘクタールその被害は量り知れないものであった。
15100-005桃山の碑1964新潟県新潟市東区桃山町2丁目204新潟市立桃山小学校地内新潟地震(1964年6月16日)地震・津波昭和39年(1964)午後1時2分の新潟地震では26名が亡くなり、津波と液状化で広く浸水し港では火災が発生した。この混乱の中で桃山小学校教職員は1,388人の子どもたちを連れて避難し、三日二夜守り続けた。
15100-006木津切れの跡1995新潟県新潟市江南区木津4-9水害(木津切れ)(1913年)洪水宝永4年(1707)より大正15年(1926)に至るまで、十数度に渉る小阿賀野川の破堤がこの地を襲った。特に大正2年(1913)8月の豪雨時は破堤約180m以上に及び、被害は旧亀田町袋津を超え遠く新潟市沼垂の地にまで及んだという。
15202-001新潟県中越大震災震央標柱2005新潟県長岡市川口武道窪平成16年(2004年)新潟県中越地震(2004年10月23日)地震平成16年(2004)10月23日、最大震度7の地震が発生。震央は、武道窪地内の田んぼの真ん中。平成17年に震央地に建てられた木の標柱が風化し始めたので、平成19年に恒久的なモニュメントを新たに設置し、平成30年に現在の位置へ移設。
15202-002平成16年7月新潟・福島豪雨伝承碑2011新潟県長岡市中之島平成16年7月新潟・福島豪雨(2004年7月13日)洪水平成16年(2004)7月13日新潟・福島豪雨により刈谷田川が決壊した。その濁流により3名の方が尊い生命を亡くし、家屋の流失・全壊15棟、半壊37棟、床上浸水496棟と甚大な被害を被った。
15208-001慰霊の碑2006新潟県小千谷市大字塩谷平成16年(2004年)新潟県中越地震(2004年10月23日)地震平成16年(2004)10月23日夕刻に中越大地震が発生し、空前絶後の災禍となった。一瞬にして山容は激変し、農地・道路・水源・電気通信等あらゆる生活基盤が破壊される中、家屋全壊で児童3名の命が奪われた。
15210-001豪雨災害の碑『七転び八起き』2016新潟県十日町市川原町平成23年7月新潟・福島豪雨(2011年7月26日~7月30日)洪水・土砂災害平成23年(2011)7月末、当地は時間降水量120ミリを超える観測史上最大級の集中豪雨に襲われ、晒川・田川の両河川の氾濫、田川の護岸の決壊、橋梁の損壊、溢れる濁流により床上浸水や建物の倒壊など、大きな被害を蒙り避難生活を余儀なくされた。
16201-001紀念碑1890富山県富山市荒川二丁目 広田用水公園内飛越地震(1858年4月9日) 土石流(1858年6月7日)洪水・土砂災害・地震安政5年2月26日(1858年4月9日)の飛越地震により、大鳶・小鳶山が崩壊し湯川を塞き止め湖水ができた。同年4月26日(旧暦)、湖水の水が、閉塞口を貫いて湯川から常願寺川へと流れ大洪水となり、下流域で64名が犠牲になった。
16211-001水災復興紀念碑・洪水水位標1940 1994富山県射水市土合(川原工業㈱資材置場北側)庄川洪水(1934年7月11日)洪水旧浅井村では昭和9年(1934)7月11日、突如起きた庄川の洪水により、307ヘクタールの美田が荒地となり、流失・倒壊家屋26戸、死者7名を出した。旧浅井村の水災復興記念碑とともに、この大洪水の教訓を生かし災害の恐ろしさと防災の心構えの大切さを後世に伝えるため旧大門町内6箇所に洪水水位標が設置されている。(この地での洪水位 10.49m)
16211-002破堤箇所標1994富山県射水市西広上(西広上破堤箇所)庄川洪水(1934年7月11日)洪水昭和9年(1934)7月9日からの豪雨により、11日9時半頃、庄川は堤防を越水、堤防外側から洗掘5個所で破堤した。濁流は新湊まで達し、死者16名、家屋流失30棟の大惨事となった。
16211-003洪水水位標1994富山県射水市島(浅井コミュニティセンター駐車場)庄川洪水(1934年7月11日)洪水昭和9年(1934)7月の庄川洪水による水害体験者の証言によると、校庭にもだく流が押し寄せ、下のグラウンドや集落内に家屋、立ち木と一緒に人も流されてきた。誕生寺の前で救助ロープで奇跡的に一命を取りとめた人もいた。後世に伝えるため、旧大門町内6箇所に洪水水位標が設置されている。(この地での洪水位 11.20m)
16211-004洪水水位標1994富山県射水市広上(広上神社)庄川洪水(1934年7月11日)洪水昭和9年(1934)7月の庄川洪水による水害体験者の証言によると、広上、西広上地内は、破堤時の激流の直撃を受け、死者7名、流失家屋26棟の大惨事となり、集落全体が川原と化した。後世に伝えるため、旧大門町内6箇所に洪水水位標が設置されている。(この地での洪水位 16.17m)
16211-005洪水水位標1994富山県射水市大門(友遊広場)庄川洪水(1934年7月11日)洪水昭和9年(1934)7月の庄川洪水による水害体験者の証言によると、洪水は鴨居の下まで達し児童は3日間学校で避難した。和田川の常盤橋を始め数橋が流失して交通が寸断され町の中は笹舟が行きかいした。後世に伝えるため、旧大門町内6箇所に洪水水位標が設置されている。
16211-006洪水水位標1994富山県射水市二口(大門小学校駐車場)庄川洪水(1934年7月11日)洪水昭和9年(1934)7月の庄川洪水による水害体験者の証言によると、二口集落のほとんどの家が床上浸水の被害を受けたが難をまぬがれた誓光寺や203の家には中田往来の通行人も含め100人余りの人が避難をした。後世に伝えるため、旧大門町内6箇所に洪水水位標が設置されている。(この地での洪水位 8.99m)
16211-007洪水水位標1994富山県射水市北野(越中大門駅ロータリー)庄川洪水(1934年7月11日)洪水昭和9年(1934)7月の庄川洪水による水害体験者の証言によると、濁流は北陸線でせき止められ旧小杉町戸破地内まで及び、その後線路の一部が崩壊し新湊地内まで達した。後世に伝えるため、旧大門町内6箇所に洪水水位標が設置されている。(この地での洪水位 8.25m)
17204-001能登半島地震復興感謝之碑2011石川県輪島市門前町門前 堀端交流広場平成19年(2007年)能登半島地震(2007年03月25日)地震2007年3月25日午前9時41分、能登半島地震(マグニチュード6.9)が発生した。輪島市は震度6強の揺れに見舞われ1名が亡くなり1万件以上の家屋被害が発生した。震災が残してくれた やさしさ 思いやり 絆 仲間 私たちは忘れない
18201-001震災記念碑不明福井県福井市大手3丁目11福井地震(1948年6月28日)地震昭和23年(1948)6月28日、福井県嶺北北部を震源とする福井地震が発生し、計3,769人、福井市だけでも930人が亡くなった。福井市の全壊率は79%に達し、壊滅的な未曾有の大災害となった。
18201-002モニュメント「福井豪雨の記憶」2005福井県福井市獺ケ口24-7福井豪雨(2004年7月18日)洪水・土砂災害平成16年(2004)7月18日、梅雨前線により明け方から猛烈な雨が降り、旧美山町内の広い範囲で土砂崩れや河川の氾濫が発生し、JR越美北線の鉄橋が流されるなど甚大な被害が出た。
18201-003破堤復旧の碑2008福井県福井市春日1丁目16福井豪雨(2004年7月18日)洪水平成16年(2004)7月18日、梅雨前線により明け方から猛烈な雨が降り、春日1丁目付近で足羽川堤防が破堤した。浸水深は石碑の高さまで達し、被害は床上浸水2514世帯、床下浸水8673世帯に及んだ。
18206-001慰霊碑1963福井県勝山市野向町横倉昭和38年1月豪雪(1963年1月)その他昭和38年(1963)1月24日午後0時半頃、堂庭坂付近より竜巻のようなアワ(大規模新雪雪崩、泡雪崩とも呼ばれる)が襲来し、横倉小学校の児童3名を含む16名の死亡者を出した。同じ場所には遺族による慰霊碑(右)も建立されている。
18206-002享保11年山崩れ・水害100年災害供養碑1825福井県勝山市猪野口享保11年女神川洪水(1726年2月)洪水・土砂災害享保11年(1726)2月29日豪雨と雪解けにより女神川上流で発生した山崩れが下流の集落を襲い死者99名を発生させた。この洪水氾濫災害から100年経過を記念して文政8年(1825)に、慰霊碑が建てられた。
18206-003享保11年女神川洪水200年災害供養碑1925福井県勝山市猪野口享保11年女神川洪水(1726年2月)洪水・土砂災害享保11年(1726)2月29日豪雨と雪解けにより女神川上流で発生した山崩れが下流の集落を襲い死者99名を発生させた。この洪水氾濫災害から200年経過を記念して大正14年(1925)に、碑が建てられた。
19207-001昭和34年災害被災60周年祈念碑2019山梨県韮崎市水神1-3-1昭和34年台風7号(1959年8月14日) 伊勢湾台風(1959年9月26日)洪水・土砂災害昭和34年(1959)8月14日、台風7号による猛烈な豪雨で釜無川が氾濫、未曽有の大洪水となった。さらに9月26日、伊勢湾台風が襲来し、記録的な暴風雨に見舞われ家屋被害が多く発生した。2つの台風による韮崎市の死者行方不明者は21名。碑には「歴史に学び自分の命は自分で守る」と刻まれている。
19207-002水難供養塔1961山梨県韮崎市一ツ谷2036昭和34年台風7号(1959年8月14日)洪水・土砂災害昭和34年(1959)8月14日の台風7号により、釜無川の堤防が決壊、祖母石地区は土砂と流木による濁流に襲われ、家の1階をすっぽり水に埋めた。濁流はそのまま一ツ谷地区に流れ込んだ。碑には亡くなった16名の御名前が刻まれている。
19207-003治水護郷1961山梨県韮崎市上祖母石1111-3付近昭和34年台風7号(1959年8月14日)洪水・土砂災害祖母石・一ツ谷地区では明治以降、水禍を被るも人命に及ぶまでは至らなかったが、昭和34年(1959)8月14日、台風7号が襲い、約2時間で一望の美田や家屋も跡かた無く全半壊し、約60ha、19名の命が奪われた。
19209-001水災紀念碑1901山梨県北杜市武川町三吹地先洪水・土石流(1898年9月6日)洪水・土砂災害明治31年(1898)9月6日、台風による暴風雨で釜無川が氾濫し、沿川の諸村が被災した。
19209-002水難之碑1960山梨県北杜市武川町三吹地先昭和34年災害(1959年8月14日)洪水・土砂災害昭和34年(1959)8月14日、台風7号により下三吹地区を土石流が襲い、12名の命が奪われ、家屋67世帯、耕作地40町歩が被災した。
20207-001災害復旧記念碑1983長野県須坂市仁礼宇原川土石流災害(1981年8月23日)洪水・土砂災害昭和56年(1981)8月23日、台風第15号により発生した土石流は6kmの沢筋を流下し、仁礼地区を縦断した。須坂市では一瞬にして10名の尊い人命が奪われるとともに、貴重な財産が失われ、道路橋梁等公共施設も多大な被害を受けた。
20429-001御嶽山噴火災害犠牲者慰霊碑2017長野県木曽郡王滝村噴火(2014年9月27日)火山災害平成26年(2014)9月27日、御嶽山が噴火。人知を超えた自然の容赦ない猛威により登山者らが巻き込まれ、58名の尊い命が奪われ、5名の足取り途絶え生還叶わぬ、火山史上希にみる噴火災害となった。
20432-001御嶽山噴火災害犠牲者慰霊碑2018長野県木曽郡木曽町(御嶽山山頂付近)噴火(2014年9月27日)火山災害平成26年(2014)9月27日、御嶽山が噴火。人知を超えた自然の容赦ない猛威により登山者らが巻き込まれ、58名の尊い命が奪われ、5名の足取り途絶え生還叶わぬ、火山史上希にみる噴火災害となった。
21202-001今福堤防決壊の碑不明岐阜県大垣市今福町洪水(1896年7・9月)洪水明治29年(1896)9月洪水による破堤災害を忘れないようにと、破堤口であるこの場所に建てられた。この地点は明治29年(1896)7月と9月の2回にわたって破堤し、また、文化12年(1815)にも破堤している。
21202-003明治29年大洪水点不明岐阜県大垣市大垣城内洪水(1896年7・9月)洪水明治29年(1896)の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の大水害であった。この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378mmとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。
21506-001天心白菊の塔1969岐阜県加茂郡白川町河岐下山1279-6昭和43年8.17豪雨災害(1968年8月17~18日)洪水・土砂災害昭和43年(1968)8月17日夜半から18日未明に襲った集中豪雨で土石流が発生し、観光バス2台が巻き込まれ飛騨川へ転落、乗客乗員104名が犠牲となった。他にも中濃地方で14名の犠牲者を出した。
22203-001震災追弔の碑1903静岡県沼津市大岡3224-4安政東海地震(1854年12月23日)地震嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震により、駿河国大岡村(現沼津市大岡南小林)の約2haほどの土地が一瞬のうちに約12~15m陥没して、住家12戸が埋没、9名が亡くなった。
22203-002七夕豪雨慰霊の碑1976静岡県沼津市獅子浜字上の山307-19七夕豪雨・土砂崩れ(1974年7月8日)土砂災害昭和49年(1974)7月8日未明、通称七夕豪雨により沼津市獅子浜地区の住宅の裏山(上の山)で土砂崩れが発生し、住宅3棟が全壊、4名が亡くなった。
22203-003妙法 横難死亡供養 霊塔1763静岡県沼津市内浦長浜字北丁94「未の荒」大雨・土砂崩れ(1751年6月26日(旧暦))土砂災害寛延4年6月26日(1751年)、伊豆地方を襲った豪雨(「未の荒」)により、伊豆国長浜村(現沼津市内浦長浜)住本寺の裏山が崩れ、堂宇をはじめ住家が流され、住職と共に村人32名が犠牲となった。
22203-004洪水紀念表1908静岡県沼津市大平字外新城洪水(寛政3年8月、安政6年7月25日、1890年8月23日、1907年8月24日)洪水狩野川左岸に位置する駿河国大平村(現沼津市大平)において、寛政3年(1791)8月、安政6年7月25日(1859年)、明治23年(1890)8月23日、明治40年(1907)8月24日に大水害が起きた。碑は元は狩野川の水際にあったもので、左右には目盛りが刻まれている。
22203-005昭和十三年戌寅年大洪水記念之碑1942静岡県沼津市戸田字御園尾1585昭和13年水害(1938年6月29日)洪水昭和13年6月29日、台風による大雨によって戸田村戸田地区(現沼津市戸田)の大川の堤防が決壊し大洪水が発生した。戸田地区の多数の家屋が浸水し、水田約65haが冠水した。
22203-006昭和十三年十六年大水害復旧記念碑1946静岡県沼津市戸田字御園尾1585昭和13年水害(1938年6月29日) 昭和16年水害(1941年7月21日)洪水昭和13年、16年の水害からの復旧記念碑。昭和16年7月12日に、戸田村戸田地区(現沼津市戸田)の大川が氾濫し、全壊5棟、橋流出などの大被害をもたらした。
22203-007災害復興記念碑1964静岡県沼津市戸田字御園尾昭和36年梅雨前線豪雨(1961年6月28日)洪水昭和36年6月28日の集中豪雨による水害からの復旧記念碑。昭和36年6月28日、梅雨前線による集中豪雨で戸田村戸田地区(現沼津市戸田)の大川が氾濫し、124haが浸水。当時の村約半分の世帯が浸水した。
22212-001激甚災害対策特別緊急事業完成記念碑1987静岡県焼津市駅北5丁目1197-4台風18号(1982年9月12日)洪水昭和57年(1982)9月12日、台風18号が焼津市を直撃、瀬戸川の入江橋下流右岸が決壊し、流域の約2800戸が浸水する甚大な被害を受けた。
23100-001伊勢湾台風殉難者慰霊之碑1960愛知県名古屋市千種区平和公園三丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日夜半に台風15号(伊勢湾台風)が襲来、高潮のため南部臨海地帯が浸水し、遭難者は約二千余名に及んだ。
23100-002伊勢湾台風30年記念碑1989愛知県名古屋市中区栄三丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮伊勢湾台風は、名古屋市西方をかすめる名古屋地方にとって最悪のコースをたどり、かつてない高潮を発生させた。名古屋市(当時の守山市、有松町、大高町含む)では、1881名に及ぶ尊い人命が失われた。この伊勢湾台風の記憶を後世に残すため、発災から30年が経った際に寄贈された記念碑である。
23100-003伊勢湾台風浸水位標識1989愛知県名古屋市熱田区内田町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮伊勢湾台風は、名古屋市西方をかすめる名古屋地方にとって最悪のコースをたどり、かつてない高潮を発生させた。名古屋市と当時の守山市及び有松・大高の両町を含む死者が1881人となり、熱田区内においては3名の尊い人命が失われた。この標識は、被災当時のこの付近一帯の最大浸水位を足下からの高さに置き換えて表示している。
23100-004伊勢湾台風浸水位標識1989愛知県名古屋市中川区春田三丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮伊勢湾台風は、名古屋市西方をかすめる名古屋地方にとって最悪のコースをたどり、かつてない高潮を発生させた。名古屋市と当時の守山市及び有松・大高の両町を含む死者が1881人となり、中川区内においては20名の尊い人命が失われた。
23100-005伊勢湾台風記念碑1962愛知県名古屋市港区港明一丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日午後9時頃、名古屋市を襲った伊勢湾台風(15号)は、市域の36%を濁流に巻き込み、1851人の尊い命を奪い去った。この母子像は、港区の無災害と発展を願い、昭和37年、旧港区役所の玄関右に建てられたもので、台座から2m下が浸水位である。
23100-006伊勢湾台風浸水位標識1989愛知県名古屋市港区入船二丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮この浸水位標識は伊勢湾台風被災30年にあたり設置したもので、被災当時のこの付近一帯の最大水深を表している。堤防の決壊や高潮、巨木の流出が主な原因となり、名古屋市(当時の守山市、有松町、大高町含む)では1881名に及ぶ人々が亡くなり、港区でも375名の尊い人命が失われた。
23100-007観音公園慰霊の碑1960愛知県名古屋市南区観音町一丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮干拓以来140年、道徳学区独立から20年のあいだ繰り返された殉難と遭難とその壮烈と悲惨との数々を肝に銘じ、我等並びに子孫のよすがとすることを誓うものとして、伊勢湾台風から1周年にあたって建てられた。
23100-008伊勢湾台風殉難者慰霊之碑1960愛知県名古屋市南区浜田町三丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日の伊勢湾台風は南区内で1417人の死者を出す大水害でした。2週間後に水が引くと、このあたりのアシの根元や田んぼに取り残された靴が集められ、花と線香が絶えませんでした。以来、「くつ塚」と呼ばれ、昭和35年(1960)にこの碑が建てられた。
23100-009伊勢湾台風浸水位標識1989愛知県名古屋市南区浜田町三丁目(23100-008脇)伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮伊勢湾台風は、名古屋市西方をかすめる名古屋地方にとって最悪のコースをたどり、かつてない高潮を発生させた。名古屋市と当時の守山市及び有松・大高の両町を含む死者が1881人となり、南区内においても1417名に及ぶ尊い人命が失われた。この標識は、被災当時の学区内の最大水深(神松地区)を足下からの高さに置き換えて表示している。
23100-010伊勢湾台風浸水位標識1989愛知県名古屋市南区大同町三丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮伊勢湾台風は、名古屋市西方をかすめる名古屋地方にとって最悪のコースをたどり、かつてない高潮を発生させた。名古屋市と当時の守山市及び有松・大高の両町を含む死者が1881人となり、南区内においても1417名に及ぶ尊い人命が失われた。
23100-011東海豪雨水害之碑2001愛知県名古屋市西区あし原町東海豪雨(2000年9月11日、12日)洪水平成12年9月11日から12日にかけて、東海地方に記録的な大雨が降り、名古屋市内では庄内川、新川、天白川などの広い流域で浸水被害が発生した。新川では左岸堤防が決壊し、西区と旧西枇杷島町は最大2.8mの深さで浸水、全半壊88棟、床上浸水5,293棟(水場川越水を含む)などの甚大な被害が発生した。
26201-001二十八災 堤防決潰之地2003京都府福知山市昭和28年台風13号(1953年9月25日)洪水昭和28年(1953)9月25日、台風13号により正午から夕刻にかけて由良川上流では時間雨量30mm~60mmの降雨があり、総雨量は3日間で約500mmに達した。同日午後9時頃には和久市の堤防が決壊し、福知山市では死者4名、家屋流失・浸水家屋約5千5百戸を数えた。流域の綾部市、大江町(現 福知山市大江町)でも被害があった。
26201-002改堤碑1914京都府福知山市洪水(1896年8月30日)(1907年8月26日)洪水明治29年(1896)8月30日、夕方には豪雨となった雨のため、由良川の水位は約9.7mに達した。京口、広小路口など各所で堤防が決壊し、家屋流失300件余り、溺死者230人余り、負傷者200人余りの被害があった。また、明治40年(1907)8月26日の洪水では、京口、明覚寺裏、広小路口のほか各所で堤防が決壊し、溺死者5名、負傷者多数の被害があった。
23210-001伊勢湾台風追悼碑1961愛知県刈谷市城町2丁目伊勢湾台風(1959年9月26日) 洪水・高潮・その他昭和34年(1959)9月26日夜の伊勢湾台風では、午後8時ごろ、刈谷市では最大瞬間風速28メートルを記録し、死者14名、倒壊・流失家屋231棟など被害は甚大だった。刈谷市水防・消防団の災害復旧に努めた功績を称え、再び惨状を繰り返さない決意を新たにするため、この碑を建立した。
23212-001震災死歿者精霊碑1957愛知県安城市和泉町向共同墓地三河地震(1945年1月13日)地震昭和20年(1945)1月13日未明、三河地方の大激震により一瞬にして和泉区内400余戸の内、倒壊家屋300余戸に達し、死者83名を出した。太平洋戦争の最中で空爆のため火葬することが出来ず、この地に犠牲者の遺体を埋葬した。
23212-002震災遭難之碑1958愛知県安城市城ケ入稲葉共同墓地三河地震(1945年1月13日)地震昭和20年(1945)1月13日未明、大地震が起り山新田組60数余戸の家屋は殆んど倒壊して26名の尊い遭難者を出した。碑文には「遭難者の尊い犠牲に依り今日迄生を長えた事に関し深く感謝して遭難者の霊を慰める可く」とある。
23212-004震災記念碑1955愛知県安城市桜井町大役田安城市役所桜井支所昭和東南海地震(1944年12月7日) 三河地震(1945年1月13日)地震昭和19年(1944)12月7日、昭和東南海地震が起こり、住宅全壊89戸、死者1名を出す。翌20年(1945)1月13日未明の三河地震発生の際は、住宅全半壊521戸、死者155名に達した。碑文には「大字藤井部落は数戸を残して倒壊し、惨状の様子は筆舌に尽くしがたい」とある。
23212-005三河地震追憶之碑1977愛知県安城市藤井町三河地震(1945年1月13日)地震昭和20年(1945)1月13日未明、突如として起こった三河地震は藤井住民の尊い生命財産を奪い、住宅全半壊176棟、死者77名を出した。碑文には「次々に襲い来る余震に脅かされながら、住民は一丸となって死傷者の救出や手当てに奔走した。こうした血まみれの努力にもかかわらず、絶命する者が続出し、まさにこの世の生地獄そのものであった。」とある。
23235-001伊勢湾台風殉難之塔1963愛知県弥富市操出十一丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日の夜、史上最大といわれた伊勢湾台風が5m31cmの高潮を伴って当地方に来襲し、瞬時に堤防を決壊させ多くの家屋家財を押し流し、弥富町住民322名の尊い人命を奪い去った。泥海の中で衣食に窮した生活80余日に及ぶ大自然の猛威を我々の心のいましめとして後世に語り継ぐ。
23235-002伊勢湾台風災害復旧竣工記念碑1963愛知県弥富市中山町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日当地方を襲った伊勢湾台風は最大風速60メートルの猛威をふるい、木曽三川下流部堤防を36ヶ所にわたって決壊させ、周辺住民の財産と多数の人命を も奪い、この付近一帯は2ヶ月余りにわたる浸水に耐えなければならなかった。
23235-003伊勢湾台風水難の碑1959愛知県弥富市平島町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日の夜に襲来した伊勢湾台風は沿海の堤防を破壊し数千の人名と巨億の財貨とを奪いこの地方一帯を約2ヶ月の長期にわたり泥湖の状態となし未曾有の災害をもたらした。
23235-004伊勢湾台風災害復興之碑1966愛知県弥富市六條町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日に来襲した伊勢湾台風は余りにも大きな傷痕をのこしていった。一瞬にして旧十四山村中を泥海と化し36名の尊い生命を奪い去ったにも拘らず村民はよく立直り日夜災害復旧に努力した。
23235-006伊勢湾台風殉難之碑1969愛知県弥富市鍋田町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日未曾有の風水害におそわれた伊勢湾台風の犠牲となられた133名の方々のご冥福を祈り、鍋田干拓地の安全と繁栄をこの地に居住されるすべての人々の幸福を祈る。
23427-001伊勢湾台風殉難之碑1963愛知県飛島村大字新政成七丁目伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日の夜、史上最大といわれた伊勢湾台風が風速50mの烈風と異例の高潮を伴って当地方へ来襲し、荒れすさぶ怒濤は瞬時に5m70cmの海岸堤防を打越え決壊し、流失家屋132戸に及び家財は全滅し飛島村住民130名の尊い人命をも奪い去ってしまった。
24205-001伊勢湾台風殉難の碑(1)1961三重県桑名市長島町松蔭伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日当地方を襲った伊勢湾台風は、木曽三川下流部の堤防を寸断し、多くの尊い人命を奪って通りすぎて行った。この碑は堤防やしゅんせつ船の保守に当られ殉職された方々をまつり再びこの悲しみを繰りかえさないよう祈りをこめて建てられた。
24205-002伊勢湾台風殉難の碑(2)1961三重県桑名市大字福岡町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日当地方を襲った伊勢湾台風は、木曽三川下流部の堤防を寸断し、多くの尊い人命を奪って通りすぎて行った。この碑は堤防の保守に当られ殉職された方々をまつり再びこの悲しみを繰りかえさないよう祈りをこめて建てられた。
24205-003伊勢湾台風災害復興記念碑1999三重県桑名市長島町松蔭伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日夜来襲した伊勢湾台風によって木曽揖斐長良三川の堤防は寸断された。これらの堤防の汐どめ工事は、多くの人々の協力により進められ、最後の締切りは大潮時にあったにもかかわらず53日目の11月18日この地において完了した。防災拠点整備により当初の記念碑に代わり建立された。
24205-004伊勢湾台風記念観音1962三重県桑名市長島町松蔭伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日突如来襲した伊勢湾台風により堤防が決壊して、松陰地区は水没し、流失家屋71戸、水難死者103名(建立当時)、その他に家財を流失した者はほぼ全村に及んだ。
24205-005平和観音像1963三重県桑名市長島町西外面伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日夜半の伊勢湾台風は史上まれな大型台風で、陸上においても風速70m以上に達し、烈風、豪雨、高波、高潮と二重三重の悪条件が重なって、伊勢湾一帯に甚大なる災害をもたらした。長島町の美田は一瞬にして泥海と化し、430世帯の家屋は流失又は全壊し、多くの家財を失い、382人の人命を失った。
24205-006城南干拓開拓史の碑1979三重県桑名市大字福岡町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日伊勢湾台風による大災害を被り、男女合わせて55名の尊い人々の命が奪われた。被災地において、仮設住宅で生活すること約2年、苦難と心痛を乗り越え、災害後3年の短期間に、復旧を成し遂げた。
24205-007伊勢湾台風不忘碑1962三重県桑名市大字立田町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日夜伊勢湾台風は大きな爪痕を当地方に残して去 った。桑名市(当時)では死者202名(建立当時)、家屋全壊・流失394世帯、床上浸水4791世帯などの大きな被害があった。
24205-008桑名宗社(春日神社)の青銅鳥居痕跡1960三重県桑名市片町伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮左右の両柱にある窪みは 昭和34年(1959)9月26日夜半の伊勢湾台風の高潮により打上げら れた荷物船が横さまに激突した痕跡である、という記述がこの鳥居の柱そのものに刻まれている。
24205-009伊勢湾台風遭難者荼毘之跡碑1966三重県桑名市大字稗田伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日伊勢湾台風により桑名市(当時)は207名の尊い人命を失った。
24205-010伊勢湾台風水難犠牲者慰霊碑1983三重県桑名市長島町浦安伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日伊勢湾北部臨海地域を襲った史上空前の伊勢湾台風は未曾有の大災害をもたらし、当松蔭地区の水難犠牲者は全域にわたり105人を数えた。
24205-011伊勢湾台風30年碑1989三重県桑名市吉之丸伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)の伊勢湾台風の災害復旧事業で建設された高潮堤防の地盤沈下対策として、延長26kmにわたる堤防のかさ上げ工事が昭和50年度(1975)から昭和63年度(1988)まで行われた。碑には「時代に引き継ぐあの教訓 伊勢湾台風」と刻まれている。
24212-001東南海大地震津波到達地点1980三重県熊野市甫母町甫母須野漁村センター裏昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した東南海地震による熊野市甫母(ほぼ)町の津波到達地点を示す碑で、昭和55年(1980)の防災の日に建立された。この津波で、甫母では家屋の床上浸水12戸の被害が発生した。
24212-002東南海大地震津波到達地点1980三重県熊野市二木島里町 二木島里町民会館裏 駐車場昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した東南海地震による熊野市二木島里町の津波到達地点を示す碑で、昭和55年(1980)の防災の日に建立された。この津波で、二木島湾内では7.1mの波高が測定され、死者5名、流失家屋18戸等の被害が発生した。
24212-003二木島の津浪地蔵1854三重県熊野市二木島町 県道二木島港線沿い 旧荒坂小学校裏安政東海地震(1854年12月23日)地震・津波嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震により、熊野灘沿岸に津波が襲来し、熊野市二木島湾内では波高が10mを超え、民家が高台の28軒のみ残し、壊滅する被害が発生した。碑は地蔵を模した自然石で、津波到達地点に建てられている。
24212-004二木島の津波の碑2009三重県熊野市二木島町 県道二木島港線沿い 逢川橋右岸袂付近昭和東南海地震(1944年12月7日)地震・津波昭和19年(1944)12月7日昼、昭和東南海地震の大津波が旧荒坂村を襲った。荒坂国民学校の児童生徒300人あまりは下校しようとしていたが、町民数名が駆けつけ、直ちに高台へ避難させた。碑には「津波が来る 子どもを逃がせ」の文字が刻まれている。すぐ横には昭和55年(1980)に建立された津波到達地点を示す碑がある。
24212-005東南海大地震の記1980三重県熊野市二木島町 市荒坂出張所隣 消防団荒坂分団倉庫前昭和東南海地震(1944年12月7日)地震・津波昭和19年(1944)12月7日午後1時35分に熊野灘海底を震源とする昭和東南海地震が発生し、津波がおしよせた。熊野市二木島湾内(町)では死者5名、家屋の流失18戸、倒壊19戸等の被害が発生した。
24212-006東南海大地震津波到達地点1980三重県熊野市二木島町 市道荒坂中学校1号線上昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震による熊野市二木島町における津波の到達地点を示す碑で、昭和55年(1980)の防災の日に建立された。二木島湾内では7.1mの波高が測定され、死者5名、流失家屋18戸等の被害が発生した。
24212-007遊木の(嘉永の)津浪供養碑不明三重県熊野市遊木町光明寺境内宝永地震(1707年10月28日) 安政東海地震(1854年12月23日)地震・津波宝永4年10月4日(1707年10月28日)の大地震・津波以来150年経って、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に安政東海地震が発生し、津波が約5m上がった。神社のほか人家流出45軒、死者が7人あった。今後、大地震の時には津波があると考え、最初は平地に出て、揺れおわりしだい高い所に逃げること。
24212-008東南海大地震津波到達地点1980三重県熊野市遊木町 旧たんぽぽ保育園敷地内昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震による熊野市遊木町の遊木川沿いの津波到達地点を示す碑で、昭和55年(1980)の防災の日に建立された。この津波で、遊木では床上浸水80戸の被害が発生した。
24212-009東南海大地震津波到達地点1981三重県熊野市新鹿町 市道津江線沿い 旧新鹿温泉前付近昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震による熊野市新鹿(あたしか)町の湊川沿いの津波到達地点を示す碑で、昭和56年(1981)の防災の日に建立された。この津波で、新鹿では死者行方不明者16名、家屋の流失倒壊151戸等の被害が発生した。
24212-010東南海大地震の記1981三重県熊野市新鹿町 里川橋左岸袂の堤防付近昭和東南海地震(1944年12月7日)地震・津波昭和19年(1944)12月7日午後1時35分に発生した熊野灘を震源とする昭和東南海地震により津波がおしよせ、熊野市新鹿(あたしか)町では死者行方不明者16名、家屋の流失倒壊151戸等の被害が発生した。この碑は昭和56年(1981)の防災の日に建立された。
24212-011津浪留不明三重県熊野市新鹿町 市道湊向井田橋線沿い 民家の石垣内安政東海地震(1854年12月23日)地震・津波嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震により、高さ約9mの津波が里川を遡上しこの石垣まで押し寄せた。新鹿(あたしか)では家屋が多数流され、多くの死者が出た。津波到達地点の石垣にこの記録を刻んだ石を配している。
24212-012東南海大地震津波到達地点1981三重県熊野市新鹿町 市道里川線沿い 小学校前橋左岸袂 民家の庭先昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震による熊野市新鹿(あたしか)町の里川沿いの津波到達地点を示す碑で、昭和56年(1981)の防災の日に建立された。この津波で、新鹿では死者行方不明者16名、家屋の流失倒壊151戸等の被害が発生した。
24212-013津浪の記1951三重県熊野市新鹿町 旧JA駐車場付近 市道町3号線上昭和東南海地震(1944年12月7日)地震・津波昭和19年(1944)12月7日午後1時頃に発生した昭和東南海地震により津波が押し寄せ、新鹿(あたしか)では死者16名、流出家屋151戸の被害が発生した。「大地震の時は先ず海に耳目を向けてください くれぐれも」。すぐ横には平成4年(1992)に建立された津波の水位を示す碑がある。
24212-014宝永地震津浪の記1999三重県熊野市新鹿町 市道新鹿停車場線沿い 天理教新鹿分教会北側石垣内宝永地震(1707年10月28日)地震・津波宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生したM8.4(推定)の宝永地震により津波が押し寄せ、午後10時にこの碑のある場所の下部の溝まで到達した。この津波で新鹿では24名が死亡し、村の家々は残らず流出、高台の28軒のみ残った。
24212-015東南海大地震津波到達地点1982三重県熊野市磯崎町 市道磯崎線沿い 民家の石垣の上昭和東南海地震(1944年12月7日)津波昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震による熊野市磯崎町磯崎漁港南側の津波到達地点を示す碑で、昭和57年(1982)の防災の日に建立された。この地区での津波の高さは約5~6mであった。
24212-016東南海大地震津波到達地点1981三重県熊野市大泊町 市道芝宮川線沿い 清泰寺墓地前付近昭和東南海地震(1944年12月7日)地震・津波昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震による熊野市大泊町の津波到達地点を示す碑で、昭和56年(1981)の防災の日に建立された。大泊町では家屋27戸が浸水し、大泊橋が流失した。
24212-017平成23年9月台風12号浸水地点2014三重県熊野市紀和町小船 禅燈寺境内への階段脇紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水平成23年(2011)9月台風12号による紀伊半島豪雨(紀伊半島大水害)では、熊野市では幸いにも死者は出なかったものの、この地区では多くの民家が浸水し、地域住民が避難生活を余儀なくされた。碑には当時の浸水深を示す矢印が記されている。
24212-018平成23年9月台風12号浸水地点2014三重県熊野市紀和町和気 市道出見世野田地線沿い民家敷地内紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水平成23年(2011)9月台風12号による紀伊半島豪雨(紀伊半島大水害)では、熊野市では幸いにも死者は出なかったものの、この地区では多くの民家が浸水し、地域住民が避難生活を余儀なくされた。碑には当時の浸水深を示す矢印が記されている。
24303-001伊勢湾台風締切記念碑(源緑輪中)1963三重県桑名郡木曽岬町源緑輪中伊勢湾台風(1959年9月26日)高潮昭和34年(1959)9月26日の伊勢湾台風により木曽岬町では300名を越える方が亡くなった。破堤した堤防はその後順次締め切られ、11月9日、この地点を最後に完全に締切が行われた。
25201-001明冶二十九年洪水石標1899滋賀県大津市下阪本四丁目9(酒井神社)洪水(1896年9月)洪水明治29年(1896)9月3日から12日の間に1008ミリの雨量を記録し県内で死者・行方不明者34名などの大きな被害をもたらしている。琵琶湖が増水し、下阪本村では全村700戸のすべてが浸水した。碑にはこのときの水位とともに、万延元年(1860)、明冶元年(1868)、明冶18年(1885)の水位も記録されている。
25201-002山津波復興記念碑不明滋賀県大津市山中町4土石流(1935年6月29日)土砂災害昭和10年(1935)6月28日からの豪雨により、翌29日に比叡連峰の一角から土石流が発生し、山中町の集落を飲み込んだ。その被害は流失全壊家屋16戸、半壊10戸、浸水47戸、重軽傷者48名と記録されている。
25201-003第2室戸台風被害の碑不明滋賀県大津市平津二丁目9(戸隠神社)第2室戸台風(1961年9月16日)洪水昭和36年(1961)9月16日、第2室戸台風により森の樹木とともに鳥居が倒壊した。その鳥居の断片に碑文を刻み碑としている。
25201-004山崩供養塔不明滋賀県大津市石山千町土砂災害(1848年7月5日)土砂災害嘉永元年6月5日(1848年7月5日)に、この谷で山崩れがあり、洪水で男女6人が溺死したことが刻まれている。
25201-005水害想出の塔不明滋賀県大津市千町四丁目土砂災害(1953年9月25日)土砂災害昭和28年(1953)年9月25日、千丈川から土砂が流入した。その面積は約1.2haにおよび、被害棟数4棟、降雨量は9月25日に199.5mmを記録している。
25201-006明冶二十九年洪水石標1971滋賀県大津市大萱三丁目8(善念寺裏)洪水(1896年9月23日)洪水明治29年(1896)9月3日から12日の間に1008ミリの雨量を記録し県内で死者・行方不明者34名などの大きな被害をもたらしている。碑の下の石垣には、このときの琵琶湖大洪水時の水位が横線で刻まれている。
25201-007明冶二十九年洪水石標1979滋賀県大津市瀬田一丁目18(西光寺)洪水(1896年9月23日)洪水明治29年(1896)9月3日から12日の間に1008ミリの雨量を記録し県内で死者・行方不明者34名などの大きな被害をもたらしている、碑にはこのときの琵琶湖大洪水時の水位が横線で刻まれている。
26214-001災害記念塔1959京都府木津川市山城町綺田西ノ城南山城水害(1953年8月15日)洪水昭和28年(1953)8月15日未明、南山城地方を襲った前日からの集中豪雨により天神川、不動川など旧山城町の4つの天井川が決壊し、死者32名、負傷者602名という大災害が起こった。とりわけ、天井川に囲まれた棚倉地域、高麗地域に被害が集中した。
26214-002南山城水害記念碑1955京都府木津川市山城町平尾綾杉河原南山城水害(1953年8月15日)洪水昭和28年(1953)8月15日未明、南山城地方を襲った前日からの集中豪雨により旧山城町の4つの天井川が決壊し、死者32名、負傷者602名という大災害が起こった。とりわけ、天井川に囲まれた棚倉地域、高麗地域に被害が集中しており、棚倉地域では24名が死亡、家屋流出19戸全壊家屋30戸であった。
26214-003水害記念碑1963京都府木津川市山城町北河原古屋敷南山城水害(1953年8月15日)洪水昭和28年(1953)8月15日午前4時、南山城地方を襲った前日からの集中豪雨により鳴子川など旧山城町の4つの天井川が決壊し、死者32名、負傷者602名という大災害が起こった。とりわけ、天井川に囲まれた棚倉地域、高麗地域に被害が集中しており高麗地域の北河原区では7名が死亡した。
27100-001大地震両川口津浪記1855大阪府大阪市浪速区幸町三丁目安政大地震・津波(1854年11月4日・5日(旧暦))地震・津波1854年12月24日の安政南海地震後に発生した津波によって、安治川・木津川等に停泊する船に避難した人々が大きな被害を受けた。1707年に発生した宝永地震の時に起きた同様の災害の教訓が生かせなかったことを、後世への戒めとして残すため建立されている。
27140-001擁護璽(ようごじ)(安政地震記念碑)江戸時代大阪府堺市堺区大浜北町4丁3-50安政南海地震(1854年11月5日(旧暦))地震・津波嘉永7年(1854)11月5日(旧暦)の安政南海地震後に発生した津波が川を逆流し、堺でも8つの橋が落ち船が割れるなどの被害を受けた。しかし、住民は神社の広い境内に避難するなどして怪我をした人もいなかった。宝永地震(1707)では船に避難して命を落とした人も多い。地震が強いときは決して船に避難してはいけない。(現在地へは1895年に移設)
27207-001大塚切れ洪水記念碑1930大阪府高槻市大塚町三丁目淀川大塚切れ(1917年10月1日)洪水大正6年(1917)10月1日、台風による大雨で淀川の水位が上昇し、高槻市大塚町の堤防が200mにわたって決壊した。家屋は流され、倒壊し、死傷者は数十人にのぼった。後世への戒め「居安必勿忘危(安楽に暮らしていても、絶対に危機のあることを忘れてはならない)」が碑文に刻まれている。
27207-002明治戊辰唐崎築堤碑1890大阪府高槻市唐崎南三丁目明治元年水害(1868年7月1日)洪水明治元年(1868年7月1日)、折からの長雨で、唐崎弥右ヱ門屋敷堤防が延長309mにわたって決壊。前島や大塚などでも堤防が切れ、被害は165か村、浸水面積5,400haにのぼった。隣には、明治18年水害による修堤碑もある。
27210-001明治十八年洪水碑1886大阪府枚方市桜町16番地先洪水(1885年6月18日・7月2日)洪水明治18年(1885)6月18日・7月2日の豪雨により、現在の枚方市伊加賀付近の淀川堤防が約180mにわたって決壊した。通称伊加賀切れと呼ばれるこの水害は、茨田郡(現守口市・門真市、枚方市・寝屋川市・大東市等の一部)一円を水没させ、濁流は大阪市中にも及んだ。この水害では、2万6千戸以上が流失、約290人が亡くなったとされる。碑は枚方市登録文化財となっている。(現在地へは2010年に移設)
28100-001慰霊と復興のモニュメント・1.17希望の灯り2000兵庫県神戸市中央区加納町6丁目4阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震平成7年(1995)1月17日に発生した阪神・淡路大震災は6,437名の死者・行方不明者を出した。震災を記憶し、復興の歩みを後世に伝え、犠牲者の慰霊と市民への励まし、大規模災害に対する世界的規模での連帯による復興の意義をアピールする。
28100-002神戸港震災メモリアルパーク 1997兵庫県神戸市中央区波止場町2阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震阪神・淡路大震災(1995)で大きな被害を受けたメリケン波止場の一部(岸壁60m)をそのままの状態で保存。神戸港の被災状況や復興の過程を中心に、震災の教訓と港の重要性や、多くの人が一体となって港の復旧・復興につとめた様子を後世に伝える。
28100-003神戸震災復興記念公園(みなとのもり公園)2010兵庫県神戸市中央区小野浜町阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震阪神・淡路大震災(1995)時に全国・世界各地からいただいた支援やボランティアの方々の精神を大きく育てるシンボルとして、また、神戸のまちが復興から発展へと前進する姿を木々の生長と共に見つけていくことを基本理念として整備。
28203-001兵庫県南部地震碑 「これは」1998兵庫県明石市(明石公園)阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震平成7年(1995)1月17日午前5時46分に発生したマグニチュード7.2の直下型地震「兵庫県南部地震」は、明石市に死者26名、負傷者1745人、家屋全壊2941戸などの大きな被害をもたらした。碑には、災害から生きのびるためにこの地震をよく記憶することの大切さをよんだ詩が、被害の記録とともに刻まれている。
28203-002兵庫県南部地震 モニュメント「明日」2000兵庫県明石市大蔵海岸通2丁目(大蔵海岸公園)阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震平成7年(1995)1月17日に発生した「兵庫県南部地震」で、明石市の死者は26名であった。横たわった石の先端は震源地を指し、つぶれた部分は地震の大きさを、垂直部分は明日への希望を表している。碑文の下にはタイムカプセルが埋設されており、震災の状況や小学生のメッセージなどが納められている。
28204-001阪神・淡路大震災 西宮市犠牲者追悼之碑1998兵庫県西宮市奥畑5番(西宮震災記念碑公園)阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震阪神・淡路大震災の教訓を風化させることなく後世に伝えるとともに、犠牲者への追悼の場とするために整備された公園施設内に設置されている。中央に西宮市関係の犠牲者の名前を刻銘した碑が、その右に追悼文を、左に犠牲者1146人全壊34181世帯などの震災記録を記した碑があり、震災写真の陶板を貼り付けた円筒碑がこれらを取り囲むように置かれている。
28204-002阪神・淡路大震災碑不明兵庫県西宮市神明町阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震平成7年(1995)1月17日午前5時46分に発生した「兵庫県南部地震」では、震度7の激震が芦原地域をおそい、地域で72人の尊い命が奪われた。阪神・淡路大震災を後世へ伝えるために、地域の被災状況を記したプレートとともに設置されている。
28206-001阪神大水害芦屋川決壊之地石碑1988兵庫県芦屋市東芦屋町6番先阪神大水害(1938年7月5日)洪水・土砂災害昭和13年(1938)阪神地方は空前の大水害に見舞われた。6月28日から降り出した雨は,7月5日には最大雨量(1日326㎜)を測る大風雨伴う豪雨となり,土石流の発生によって芦屋川と宮川が氾濫した。土砂崩壊や巨石の流出により,精道村(芦屋市の前身)でも多くの箇所が泥沼化した。
28209-001北但大震災伝承碑1940兵庫県豊岡市田結1751北但大震災(1925年5月23日)地震大正14年(1925)5月23日に発生した北但馬地震(北但大震災)により港村田結では83戸中82戸が全半壊し、村民65人がその下敷きになった。直ぐに火が燃え上がったが、村民が消火を優先して延焼を食い止め、消火後に58人を救助した。
28209-002北但大震災伝承銅像1985兵庫県豊岡市城崎町北但大震災(1925年5月23日)地震大正14年(1925)5月23日に発生した北但馬地震(北但大震災)により城崎町湯島地区ではほとんどの家が倒壊し、全町が焼き尽くされ272名の死者を出した。当時の町長は、メガホンを片手に焼野を廻り、人々を慰め励ました。
28209-003治水祈念の碑2006兵庫県豊岡市日高町浅倉平成16年台風23号水害(2004年10月20日)洪水平成16年(2004)10月20日、台風23号により、この地にて二人の尊い命が失われた。ここに慰霊とともに、治水整備への願いと誓いを込めて、治水祈念の碑を遺族、周辺住民の志により建立する。
28214-001鎮魂之碑1997兵庫県宝塚市小林字西山(ゆずり葉緑地)阪神・淡路大震災(1995年1月17日)地震平成7年(1995)1月17日午前5時46分に発生した「兵庫県南部地震」では、宝塚市を震度7の激震が襲い、死者118名住家全壊3500棟を超える大きな被害があった。碑のタイムカプセルには、犠牲者の名簿や震災の記録などとともに、被災した子供たちの復興への願いがこめられた作文が納められている。
29207-001紀伊半島大水害慰霊碑2016奈良県五條市大塔町宇井紀伊半島大水害(2011年9月4日)洪水・土砂災害平成23年(2011)9月4日、台風23号による豪雨(紀伊半島大水害)により熊野川右岸の山腹が崩落。これにより対岸の宇井地区に土砂や河川の水が到達し、8名が死亡、3名が行方不明となった。この災害を後世に伝え、地域の発展を願って慰霊碑が建立された。
29207-002紀伊半島大水害水害警戒碑2016奈良県五條市大塔町宇井紀伊半島大水害(2011年9月4日)洪水平成23年(2011)9月4日、台風23号による豪雨(紀伊半島大水害)により土砂災害が発生。8名が死亡、3名が行方不明となった。その際に増水した熊野川の水位を後世に伝えるため、石碑を建立した。
29207-003紀伊半島大水害水害警戒碑2016奈良県五條市大塔町辻堂紀伊半島大水害(2011年9月4日)洪水平成23年(2011)9月4日、台風23号による豪雨(紀伊半島大水害)により土砂災害が発生。8名が死亡、3名が行方不明となった。その際に増水した熊野川の水位を後世に伝えるため、石碑を建立した。
29207-004明治22年水害碑不明奈良県五條市大塔町辻堂明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19日)洪水明治22年(1889)に発生した大水害では、旧大塔村内で死者35名、流出家屋87戸などの甚大な被害があった。その際の水位を記録したもの。碑文には「明治22年8月19日の洪水氾濫がこのところにおよび、すなわち立石をもって後のためにこれを警戒させん」とある。
29207-005禍害復旧之碑1984奈良県五條市西吉野町屋那瀬昭和57年台風10号(1982年8月4日)洪水・土砂災害昭和57年(1982)の台風10号により、西吉野町屋那瀬の通称「くえ山」が2度にわたり大規模に崩落。丹生川をせき止め、和田、屋那瀬地区で住宅8棟全壊、13棟半壊、床上浸水34戸などの被害を出した。住民は早期避難により全員無事だった。碑文は「昭和57年8月4日未明 台風10号により この地に於いて山崩れがあり 幸い人身事故には至らず 各位のご尽力によりここに復旧をみた ふたたび災害の無きことを祈願し、この碑を建立する」とある。
29207-006柳谷部落遭難之碑不明奈良県五條市大塔町辻堂明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19日)土砂災害明治22年(1889)8月19日の豪雨で発生した大水害では、旧大塔村内で死者35名、流出家屋87戸などの甚大な被害があった。大規模崩壊により、柳谷集落の6戸23人が犠牲となった(資料により戸数、人数は異なる。)。現在、集落は存在せず、石碑は大塔神社付近にある。 
29207-007慰霊碑1936奈良県五條市大塔町辻堂明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19日)土砂災害明治22年(1889)8月19日の豪雨で発生した大水害では、旧大塔村内で死者35名、流出家屋87戸などの甚大な被害があった。大規模崩壊により、柳谷集落の6戸23人が犠牲となった(資料により戸数、人数は異なる。)。現在、集落は存在せず、石碑は浄称寺の門付近にある。 
29447-001昭和廿八年七月水難犠牲者慰霊碑1973奈良県吉野郡野迫川村大字北股紀州大水害(1953年7月18日)洪水・土砂災害昭和28年(1953)6月から雨が降り続いたが、7月18日夜半に豪雨となった。雨量は1000mmを超え、野迫川村内は一瞬にして交通遮断、田畑埋没、人家流失となり、北股地区の人家は数軒を残すのみとなった。犠牲者は22名にも達した。
29447-002紀伊半島大水害復興祈願之碑2014奈良県吉野郡野迫川村大字北股紀伊半島大水害(2011年9月4日)洪水・土砂災害平成23年(2011)8月31日から9月4日に紀伊半島を襲った台風12号は、総雨量1040mmという記録的大雨となった。岩ノ谷南斜面で8ヘクタールに及ぶ深層崩壊が発生して土石流となり、家屋等を倒壊し北股川を閉塞させた。それにより北股区民は2年10カ月に及ぶ避難生活を余儀なくされた。
29449-001明治大水害高津中山崩壊地跡1990奈良県吉野郡十津川村大字高津明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水・土砂災害明治22年(1889)8月20日午前7時、中山に高さ360m、幅480mの範囲で崩壊した。崩壊土砂は十津川に落下して川をせき止め、天然ダムを形成した。塞ぎ留められた奔流は逆流し、上流の各集落を襲い大被害となった。天然ダムは17時間後に決壊した。
29449-002紀伊半島大水害警戒碑(十津川村湯之原)2014奈良県吉野郡十津川村大字湯之原紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水平成23年(2011)9月3~4日の紀伊半島大水害により増水した十津川は、石碑より約70cm上の高さまで到達し、付近の住民を脅かした。この体育文化センターに避難していた住民は、国道より上の高台や公民館、大字小原の十津川第一小学校に避難した。 
29449-003新十津川物語 津田フキの像1990奈良県吉野郡十津川村大字小原225-1明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水・土砂災害明治22年(1889)8月18日から20日にかけて、十津川村は未曾有の豪雨に襲われ、死者168名に及ぶ大被害をこうむった。このため、被害を受けた住民のうち600戸2600名は北海道移住を余儀なくされた。このことを描いた児童小説「新十津川物語」の主人公津田フキは9歳まで十津川村で育った。
29449-004山手の明治22年紀伊半島災害慰霊碑1981奈良県吉野郡十津川村大字山手明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水・土砂災害明治22年8月に十津川郷は、水災により大きな被害を受けた。なかでも山手は各所に発生した山崩れ、河川の決壊による死者14名、倒壊家屋16戸、田畑山林崩壊10ヶ所に及ぶ被害を受けた。水害犠牲者の慰霊のため、この碑は建てられた。
29449-005明治22年水害碑(十津川村重里)不明奈良県吉野郡十津川村大字重里明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水・土砂災害明治22年(1889)8月19日、未曽有の豪雨により多くの土砂災害が発生した。旧西十津川村内で犠牲者42名、潰家40戸、流家6戸などの甚大な被害があった。その際の水位を記録したもの。碑文には「明治22年8月19日の洪水氾濫がこのところにおよび、すなわち立石をもって後のためにこれを警戒させん」とある。
29449-006水害記念碑1990奈良県吉野郡十津川村大字小川地内明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水・土砂災害明治22年(1989)8月19日から20日にかけて、十津川村は豪雨に襲われ、死者168名に及ぶ大被害をこうむった。このため、被害を受けた住民のうち、600戸2600名は北海道移住を余儀なくされ、残された住民も復旧のため、幾多の苦難を乗り越えていかなければならなかった。
29449-007紀伊半島大水害警戒碑(十津川村宇宮原)2014奈良県吉野郡十津川村大字宇宮原紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水・土砂災害平成23年(2011)9月3~4日の紀伊半島大水害により、下流の山腹崩壊で熊野川がせき止められ天然ダムが形成された。そこに「にごり谷」で発生した山腹崩壊の土石流が勢いよく河川に入り、大量の水が段波となって逆流し、上流の長殿発電所や民家を襲い、2世帯3人が被災した。
29449-008紀伊半島大水害警戒碑(十津川村野尻)2014奈良県吉野郡十津川村大字野尻紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水・土砂災害平成23年(2011)9月3日の紀伊半島大水害により、対岸の深層崩壊による土石流が、満水状態となっていた河川に入り流れを変え、この場所にあった村営住宅2棟を飲み込んだ。居住者など3世帯8人の尊い命が失われた。
29449-009紀伊半島大水害警戒碑(十津川村今西)2014奈良県吉野郡十津川村大字今西紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水・土砂災害平成23年(2011)9月の紀伊半島大水害の豪雨により、地すべりが発生した。今西地区全体が避難指示区域に指定され、住民は避難生活を余儀なくされた。
29449-010紀伊半島大水害警戒碑(十津川村折立)2014奈良県吉野郡十津川村大字折立紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水平成23年(2011)9月の紀伊半島大水害により河川が増水し、9月4日午前1時10分頃、長さ95mに渡って国道168号折立橋が落橋し、ケーブルが切断され通信が途絶えた。仮設橋が出来るまでの57日間通行止めとなった。
29449-011警戒碑(十津川村平谷)不明奈良県吉野郡十津川村大字平谷明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水明治22年(1889)8月19日に発生した洪水氾濫は、平谷の、かつて碑が建てられた場所にも及んだ。この碑は大水害後に警戒の為に建立された。碑はダムによる水没のため、現在の場所に移転している。
29449-012紀伊半島大水害警戒碑(十津川村桑畑)2014奈良県吉野郡十津川村大字桑畑紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水平成23年(2011)9月2~3日の紀伊半島大水害の豪雨により、二津野ダム湖の水が川のように流れ、国道168号を侵食し道路が崩壊した。全面通行止めとなった道路は、復旧作業により約1カ月後には片側交互通行となった。
29449-013紀伊半島大水害警戒碑(十津川村神下)2014奈良県吉野郡十津川村大字神下紀伊半島大水害(2011年9月3~4日)洪水平成23年(2011)9月の紀伊半島大水害により、ここより10メートル下の地点まで北山川の水位が上昇した。またこの付近では、電気が約6日間、電話が約4日間使用できなかった。北山川の上流にあたる奈良県上北山村では、累積雨量2,439㎜を観測した。
29449-014警戒碑(十津川村上野地)不明奈良県吉野郡十津川村大字上野地明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水明治22年(1889)8月19日に発生した洪水氾濫は、上野地の、この碑が建てられた場所にも及んだ。この碑は大水害後に警戒の為に建立された。
29449-015警戒碑(十津川村五百瀬)不明奈良県吉野郡十津川村大字五百瀬明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水明治22年(1889)8月19日に発生した洪水氾濫は、上野地の、この碑が建てられた場所にも及んだ。この碑は大水害後に警戒の為に建立された。
29449-016故宇智吉野郡長玉置高良君遭難地碑1890奈良県吉野郡十津川村大字宇宮原明治22年紀伊半島大水害(十津川大水害)(1889年8月19~20日)洪水・土砂災害明治22年(1889)8月20日午前1時過ぎに発生した山崩れが当地(宇宮原)の旅館を襲い、旅館もろとも11名が遭難死した。碑は、旅館から300m離れたこの地に建てられた。
30201-001洪水記念碑不明和歌山県和歌山市坂田紀の川水系洪水(1889年8月20日)洪水明治22年(1889)8月、2日間にわたる台風の大雨により、紀の川から出水。碑文には、県下の死者千人以上、村内の浸水は西入口で約1.8m、東山際で約0.9mを超える高さに及んだとある。
30205-001水害之碑1954和歌山県御坊市薗835-4紀州大水害(1953年7月18日)洪水昭和28年(1953)7月18日の600mmに及ぶ豪雨により日高川が氾濫した。被害は御坊市全域で、死者26名行方不明100名、重軽傷約3,000名、推定床上浸水4,000戸、内流失365戸であり、復旧には数年を要した。自然に対する警戒心を忘れないように、碑を建てて後世に言い伝える。
30205-004水位標1958和歌山県御坊市薗350紀州大水害(1953年7月18日)洪水昭和28年(1953)7月18日の豪雨による大水害は、堤防を決壊させ濁流が一瞬にして数百の家屋を倒壊し、600ヘクタール余りの耕地を荒れ地とした。その時の水位を刻んだ碑を建てることにより、大水害を忘れないための記念とする。(建立当時から移動しているため、正しい水位が指し示されていない可能性がある)
30205-005野口橋の碑1958和歌山県御坊市野口紀州大水害(1953年7月18日)洪水昭和28年(1953)7月18日、夜来の豪雨は未曽有の大洪水となり、日高川の堤防を寸断し耕地を沈め多くの人命を奪った。野口橋も流され、コンクリート橋脚一基を残すのみとなった。昭和31年(1956)に新野口橋が着工され、昭和33年5月に竣工したことを記念として建立された。
30205-006村田美成の碑1894和歌山県御坊市薗394(浄国寺境内)明治22年紀伊半島大水害(1889年8月)洪水明治22年(1889)8月19日~20日にかけての豪雨で日高川が決壊し、濁流は多くの家屋、人、家畜を押し流した。この水害では、男女219名が犠牲になったとされている。
30205-007藤井の耕地復旧記念碑1962和歌山県御坊市藤田町吉田紀州大水害(1953年7月18日)洪水昭和28年(1953)7月18日、夜来の豪雨は紀州の全域を襲った。有田川と日高川の流域の被害が最も多く、山は崩れて谷を埋め水害により堤防は寸断され、濁流は天に連なって人や家を押し流し、特に耕地の荒廃は甚大であった。もとは藤田町藤井の県道沿いに建てられていたが、現在は藤田町吉田の県道・御坊美山線沿いに建てられている。
30206-001宝永津波の碑2012和歌山県田辺市新庄町宝永の地震・津波(1707年10月4日(旧暦))津波1707年10月28日に発生した宝永地震により多くの家屋が倒壊した。その後の津波により江川浦ではほとんどの家屋が流出し、本町、紺屋町、片町でも過半数が流出した。東光寺前の坂では、文里湾の波と跡之浦の波が打ち合ったと言われている。
30206-002津波の碑1973和歌山県田辺市新庄町宝永の地震・津波(1707年10月4日(旧暦))津波1707年10月28日に発生した宝永地震により多くの家屋が倒壊した。その後の津波により江川浦ではほとんどの家屋が流出し、本町、紺屋町、片町でも過半数が流出した。東光寺前の坂では、文里湾の波と跡之浦の波が打ち合ったと言われている。
30206-003寶永の津波潮位碑1998和歌山県田辺市新庄町宝永の地震・津波(1707年10月4日(旧暦))津波1707年10月28日に発生した宝永地震による津波による右からの波と左からの波が、こちらで打ち合ったと言われている。
30206-004安政津波の碑1972和歌山県田辺市新庄町安政の地震・津波(1854年11月5日(旧暦))津波1854年12月23日の安政東海地震に続いて24日16時半頃再び安政南海地震が発生したため、津波を心配した人々は高台に避難した。間もなく大津波が押し寄せたが、その様子は大変恐ろしく言葉も出ないほどだった。
30206-005安政津波の碑1972和歌山県田辺市新庄町799安政の地震・津波(1854年11月5日(旧暦))津波1854年12月23日の安政東海地震に続いて24日16時半頃再び安政南海地震が発生したため、津波を心配した人々は高台に避難した。間もなく大津波が押し寄せたが、その様子は大変恐ろしく言葉も出ないほどだった。
30206-006安政津波の碑1972和歌山県田辺市新庄町安政の地震・津波(1854年11月5日(旧暦))津波1854年12月23日の安政東海地震に続いて24日16時半頃再び安政南海地震が発生したため、津波を心配した人々は高台に避難した。間もなく大津波が押し寄せたが、その様子は大変恐ろしく言葉も出ないほどだった。
30206-007安政津波の碑1972和歌山県田辺市新庄町安政の地震・津波(1854年11月5日(旧暦))津波1854年12月23日の安政東海地震に続いて24日16時半頃再び安政南海地震が発生したため、津波を心配した人々は高台に避難した。間もなく大津波が押し寄せたが、その様子は大変恐ろしく言葉も出ないほどだった。
30206-008安政津波の碑1972和歌山県田辺市新庄町安政の地震・津波(1854年11月5日(旧暦))津波1854年12月23日の安政東海地震に続いて24日16時半頃再び安政南海地震が発生したため、津波を心配した人々は高台に避難した。間もなく大津波が押し寄せたが、その様子は大変恐ろしく言葉も出ないほどだった。
30206-009安政南海地震・昭和南海地震津波潮位碑1999和歌山県田辺市新庄町安政の地震・津波(1854年11月5日(旧暦)) 昭和南海地震(1946年12月21日)津波安政南海地震(1854)と昭和南海地震〈1946〉による津波災害を忘れないため、津波潮位を刻んでいる。カニのはさみをモチーフしたデザインで、ハサミの先端が当時の津波潮位。
30206-010南海大地震津波潮位標1948和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日、田辺市から南西100キロの海底で昭和南海地震が発生した。その津波により製材工場の群集地でもあった橋谷付近は、木材が散乱し又人家に打ち付け、田畑や家屋もことごとく海底の泥砂で埋まり、目もあてられない状態だった。
30206-011南海大地震津波潮位標1948和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日、田辺市から南西100キロの海底で昭和南海地震が発生した。その津波により製材工場の群集地でもあった橋谷付近は、木材が散乱し又人家に打ち付け、田畑や家屋もことごとく海底の泥砂で埋まり、目もあてられない状態だった。
30206-012南海大地震津波潮位標1948和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日、田辺市から南西100キロの海底で昭和南海地震が発生した。その津波により製材工場の群集地でもあった橋谷付近は、木材が散乱し又人家に打ち付け、田畑や家屋もことごとく海底の泥砂で埋まり、目もあてられない状態だった。
30206-013南海大地震津波潮位標1948和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日、田辺市から南西100キロの海底で地震が発生した。その津波により製材工場の群集地でもあった橋谷付近は、木材が散乱し又人家に打ち付け、田畑や家屋もことごとく海底の泥砂で埋まり、目もあてられない状態だった。
30206-014南海道地震潮位2006和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日に発生した昭和南海地震による津波が到達した跡が現地に建つ民家の外壁に残っていたが、建物撤去にあたり津波潮位保存のため跡之浦町内会が設置した。
30206-015南海大地震津波潮位標1948和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日、田辺市から南西100キロの海底で昭和南海地震が発生した。その津波により製材工場の群集地でもあった橋谷付近は、木材が散乱し又人家に打ち付け、田畑や家屋もことごとく海底の泥砂で埋まり、目もあてられない状態だった。
30206-016南海道大地震津波潮位標1991和歌山県田辺市新庄町昭和南海地震(1946年12月21日)津波1946年12月21日、田辺市から南西100キロの海底で昭和南海地震が発生した。その津波により製材工場の群集地でもあった橋谷付近は、木材が散乱し又人家に打ち付け、田畑や家屋もことごとく海底の泥砂で埋まり、目もあてられない状態だった。
30361-001大地震津なみ心え之記1854和歌山県有田郡湯浅町湯浅785安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月5日(旧暦)の安政南海地震では、海鳴りの後すぐに津波が押し寄せ、地震から逃れようと浜や川筋に逃げて溺死した人が多かった。150年前の宝永地震の際も浜に逃げた多くの人々が津波で死んだ事を知るものも少なくなったのでこの碑を建てる。地震が起きたら火の用心をして津波の前兆がなくても必ず浜辺川筋ではなく、深専寺の門前を通り、天神山へ逃げること。
30362-001感恩碑1933和歌山県有田郡広川町広(広村堤防内)宝永地震(1707年10月28日) 安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波旧広村では、宝永4年10月4日(旧暦)に襲来した津波で村中が水没して約300名が死亡し、嘉永7年11月5日(旧暦)に発生した安政南海地震による津波でも村は壊滅し、約30名が死亡した。濱口梧陵らは、再来する津波を防ぐため、私財を投じて堤防を築いた。先人の偉業に思いをはせ愛護することで、将来の災害に備えることができるのではないか。
30362-002濱口梧陵碑1892和歌山県有田郡広川町上中野206 広八幡神社境内 安政南海地震(1854年12月24日)津波安政南海地震(1854年)による津波が旧広村を襲い、村落は跡形もない程に洗い流された。津波は日暮れ後に起こったので人々は逃げる場所がわからなかった時に、濱口梧陵は暗闇の中で田に重ねてあった稲むらに火をつけて周りを明るくした。人々はそれを頼りにして高台に逃げることができたので、津波に巻き込まれず助かることができた。
30390-001「高波溺死霊魂之墓」碑1719和歌山県印南町印南2259宝永地震(1707年10月28日)津波宝永4年10月4日(1707年10月28日)午後0時半ごろ大地震があり、山が崩れ、地が裂けた。午後1時半ごろ、でこぼことした津波が、海から揚がって来た。家財や牛馬はもちろん、老いた人や若い人、男や女も溺れて亡くなった人は170人を超えるぐらいである。津波の高さは札之辻で約180cm、この碑の場所で約60cmに達し、現在の大字山口との境まで到達した。
30421-001大津浪記念之碑1950和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満308(天満神社)昭和東南海地震(1944年12月7日)地震・津波昭和19年(1944)12月7日午後2時過ぎに発生した昭和東南海地震による津波があらゆるものを押し破りなぎ倒して天満・須崎・高岸の集落に流れ込み、旧那智町天満地区で死者9名、損壊家屋117戸の被害がでた。この地は、2年後の昭和南海地震による津波でも同様に被害が発生した。時が経てば人々の記憶も薄れるのでこの碑を建てた。
30421-002紀伊半島大水害記念碑2012和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字井関1059番地紀伊半島大水害(2011年9月4日)洪水・土砂災害平成23年(2011)9月2日から4日にかけて、台風12号の影響により紀伊半島の広い範囲で総雨量1000mmを超える大雨となり、那智勝浦町も死者28名、行方不明者1名、全壊家屋103棟、半壊・大規模半壊家屋905棟という大きな被害に見舞われた。特に那智川流域では多くの支流で土石流が発生して大規模な氾濫を引き起こし、より大きな被害となった。
31201-001水災死者供養塔1895鳥取県鳥取市青谷町紙屋184(弥勒寺境内)土砂災害(1893年10月14日)土砂災害明治26年(1893)10月14日の暴風雨により、14日夜に山が鳴動して山崩れが発生した。この災害により41名の命が奪われた。
31201-002溺死海会塔1801鳥取県鳥取市浜坂二丁目洪水(1795年8月29日(旧暦))洪水寛政7年(1795)8月29日(旧暦)に、大雨で袋川の水があふれて大洪水が発生し、約650名の命が奪われた。この地では文禄2年(1593)、寛永12年(1635)、寛文13年(1673)、享保14年(1729)にも洪水で甚大な被害を受けている。
32202-001漸に杜ぎ、萠に防ぐ(ぜんにふさぎ、ぼうにふせぐ)1987島根県浜田市穂出町昭和58年7月豪雨(1983年7月23日)土砂災害昭和58年(1983)7月23日、梅雨前線による豪雨により各所で山崩れが発生した。中場地区でも山が崩れ、死者15名、全壊家屋8戸の被害を受けた。
32202-002震災紀念之碑1896島根県浜田市牛市町浜田地震(1872年3月14日)地震明治5年2月6日(1872年3月14日)、浜田市沖を震源とする大地震により、浜田市街では地は裂けて家屋は倒壊、火災があちこちで発生し、多くの死傷者が出た。牛市町では家屋83戸が倒壊・焼失し、人口300人余りのうち、死者42名、負傷者100名余りの被害を受けた。
32202-003静流の鐘塔1989島根県浜田市三隅町古市場昭和58年7月豪雨(1983年7月23日)洪水・土砂災害昭和58年(1983)7月23日、降り続いた豪雨は650mmに達して三隅川を始め各支流が氾濫し、家々や道路や橋が押し流された。また、膨大な土石流が人家を襲い、田畑は埋まり、多くの施設が破壊された。この未曽有の大災害により、三隅町全域で33名の尊い命が奪われた。
32202-004五十八年山陰豪雨災害追悼之碑2002島根県浜田市三隅町岡見昭和58年7月豪雨(1983年7月23日)洪水・土砂災害昭和58年(1983)7月23日早朝6時少し過ぎ、降り続いた局地的豪雨により、観音山で大規模な山崩れが発生し、住宅5戸がおしつぶされ、一瞬のうちに13名もの尊い命が奪われた。
32203-001(洪水)伝承碑1895島根県出雲市船津町洪水(1873年、1893年、1894年)洪水明治6年(1873),26年(1893),27年(1894)と連続した水害に見舞われた地区民が以後の安全を祈り明治28年(1895)に建立した。
32203-002(洪水)伝承碑1895島根県出雲市船津町洪水(1873年、1893年、1894年)洪水明治6年(1873),26年(1893),27年(1894)と連続した水害に見舞われた地区民が以後の安全を祈り明治28年(1895)に建立した。
32204-001防災祈念碑1984島根県益田市本町7-17(益田小学校敷地内)昭和58年7月豪雨(1983年7月23日)洪水昭和58年(1983)7月20日から23日にかけて降り続いた豪雨により益田川が氾濫した。この未曾有の大水害により旧益田市では死者32人、床上浸水3916戸など壊滅的な被害を被った。
32204-002松崎の碑1814島根県益田市高津五丁目(金刀比羅神社・恵美須神社境内)津波(1026年)津波万寿3年(1026)、地震による大津波で高津沖にあった鴨島が水没するなど大きな被害を被った。
32205-001水難横死者追悼碑1949島根県大田市仁摩町大国1057-2洪水・山崩れ(1943年9月20日)洪水・土砂災害昭和18年(1943)9月20日、前日から降り続いた豪雨により石見地方に大災害が発生した。旧大国村でも潮川が氾濫。10日前に発生した鳥取大地震で地盤が緩んでいたこともあり、一帯は田畑の流出、家屋崩壊が発生し、23名の犠牲者が出た。
33202-001明治26年大洪水供養塔1929岡山県倉敷市真備町川辺 源福寺敷地内大洪水(1893年10月12日13日)洪水明治26年(1893)10月12日13日、台風襲来による大洪水のため、高梁川右岸の秦・富原・下原と川辺の渡し上流50mの神楽土手が決壊。小田川でも坪田・外和崎などが決壊。死者は2百余名と伝えられた。供養塔は、その頭部が当時の水位となるように建立された。
33202-002台風17号による浸水1978岡山県倉敷市真備町川辺 川辺小学校敷地内浸水(1976年9月12日)洪水昭和51年(1976)9月12日、台風17号により広い地域で浸水被害をもたらした。
33606-001洪水紀念碑1903岡山県苫田郡鏡野町宗枝第一水害・第二水害(1892年7月23日・1893年10月13日)洪水明治25年(1892)7月23日と翌26年(1893)10月13日に吉井川が氾濫し、宗枝、古川地内で堤防決壊約1㎞、農地冠水約7ha、家屋流失3棟と甚大な被害が発生した。
34100-001水害之碑1909広島県広島市安芸区矢野東五丁目(矢野東集会所付近)洪水・土石流(1907年7月15日)洪水・土砂災害明治40年(1907)7月15日に発生した豪雨災害について、発生前の村の様子、地理的位置、後世に伝えるべきという石碑建立の意図などが記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-002災害の碑1919広島県広島市安佐南区相田二丁目(相田集会所敷地内)洪水(1916年9月6日)洪水大正5年(1916)9月6日に起きた安川の洪水災害について、多くの金銭的・人的支援、県知事や村長、県会議員の指揮で村民が奮起したことや石碑建立の経緯や意図も述べられている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-003水害碑1930広島県広島市東区温品七丁目(府中大川沿い、八幡端西詰)洪水・土石流(1926年9月11日)洪水・土砂災害大正15年(1926)9月11日の集中豪雨により発生した洪水・土石流による被災の様子や被害状況が漢文で記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-004畑賀村水害碑1930広島県広島市安芸区畑賀三丁目(畑賀小学校敷地内)洪水・土石流(1926年9月11日)洪水・土砂災害大正15年(1926)9月11日の集中豪雨により発生した洪水・土石流災害について、地理的位置や犠牲者の名前などを碑に刻み、災害の様子や復興の過程を後世に伝えている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-005水害記念碑1935広島県広島市安芸区中野一丁目(畑賀川沿い)洪水・土石流(1926年9月11日)洪水・土砂災害大正15年(1926)9月11日の集中豪雨により発生した洪水・土石流などの水害の復旧工事完了を記念して建立され、工事にあたった耕地整理組合員の名前も記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-006鉄道遭難者追弔塔1927広島県広島市安芸区中野三丁目(専念寺境内)洪水・土石流(1926年9月23日)洪水・土砂災害大正15年(1926)9月23日の集中豪雨により発生した洪水・土石流が原因で起きた鉄道事故の犠牲者を弔うために建立され、表面に名前などが刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-007瀬川卯一翁彰徳碑1943広島県広島市安佐南区山本七丁目(平山神社ちびっこ広場付近)洪水・土石流(1926年)(1928年)洪水・土砂災害大正15年(1926)及び昭和3年(1928)の集中豪雨により発生した洪水・土石流災害の原因と被害状況、発生時に山本村長だった瀬川氏の復興に対する功績が記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-008水害紀念碑1930広島県広島市安佐北区可部二丁目(品窮寺境内)洪水(1928年6月24日)洪水昭和3年(1928)6月24日、太田川支流の根の谷川の氾濫により,可部の市街地で洪水が発生し、市街地にある品窮寺境内に氾濫した水が流れ、深さ約4尺(120cm)浸水したと刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-009伴安水災復興碑1933広島県広島市安佐南区長楽寺二丁目(ヌマジ交通ミュージアム付近)土石流(1928年6月24日)土砂災害昭和3年(1928)6月24日の土石流災害発生時の気象条件、被害状況、復興の過程や、災害への心構えなどを伝えている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-010慰霊碑1957広島県広島市佐伯区湯来町大字麦谷(下井谷橋南詰西側)洪水・土石流(1951年10月14日)洪水・土砂災害昭和26年(1951)10月14日に発生したルース台風による犠牲者の名前や年齢を碑に刻み、二度と災害が起こらないよう祈念して建立された。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-011ルース台風を偲ぶ1992広島県広島市佐伯区湯来町大字麦谷(湯来農村環境改善センター敷地内)洪水・土石流(1951年10月14日)洪水・土砂災害昭和26年(1951)10月14日に発生したルース台風により洪水を起こした水内川流域で再び災害が起きないことを祈念し、災害から41年を経て建立された。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-012慰霊碑1966広島県広島市南区段原南一丁目(段原南第三公園内)土石流(1965年6月20日)土砂災害昭和40年(1965)6月20日に発生した山崩れにより犠牲となった方を慰霊するため、比治山のふもとにある公園の一画に建立された。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-013忘れまい大災害2012広島県広島市佐伯区五日市町大字上河内(河内公民館敷地内)土石流(1999年6月29日)土砂災害平成11年(1999)6月29日に発生した6.29災害を受け、後世に災害を伝えるために建立された。また、これまでの災害についても記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-014広島土砂災害2014広島県広島市安佐南区祇園三丁目(祇園小学校敷地内)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土石流により地上から62cmまで冠水したことを示す赤い線を碑に刻み、災害時の状況を後世に伝えている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-015土砂災害記念碑2015広島県広島市安佐南区緑井七丁目(緑井第八公園[八敷公園]内)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土石流により犠牲になった方の名前や民家の破壊という被害を後世に伝えるため、公園内に建立された。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-016鎮魂の碑2015広島県広島市安佐南区八木三丁目(梅林集会所付近)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土砂災害に関する石碑で、周辺で犠牲になった方の名前が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-017慰霊碑2015広島県広島市安佐南区八木三丁目(県営緑丘住宅敷地内)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土石流による県営緑丘住宅や小原山地区の犠牲者を弔うため建立。犠牲者の名前や豪雨の様子などが記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-018広島土砂災害 忘れまい8・202015広島県広島市安佐南区八木三丁目(梅林小学校敷地内)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土石流による犠牲者への哀悼の意と、この災害が後世に伝わることを目的に建立されたことが記されている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-019広島豪雨災害記念碑 2015広島県広島市安佐北区可部東六丁目(可部東第四公園内)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土石流による災害について、発生年月日などを碑の正面に刻み、被災の記憶を後世に伝えている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34100-020ぼうさい碑2017広島県広島市安佐北区三入三丁目(三入小学校敷地内)土石流(2014年8月20日)土砂災害平成26年(2014)8月20日に発生した土石流について、碑の正面に三入小学校の児童が作成したポスター、裏面に災害地図などを配置している。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34210-001篠堂川復旧記念碑2014広島県庄原市川北町平成22年庄原豪雨災害(2010年7月16日)洪水・土砂災害平成22年(2010)7月16日、庄原市川北町及び西城町の一部で時間雨量91mm、10分雨量44mmという局所的な集中豪雨が発生した。10日から降り続いていた雨で地盤が緩んでおり斜面崩壊と土石流が多発、死者1名、家屋全半壊28棟などの被害をもたらした。特に篠堂地区では被害が大きく、住民は地区外に移転した。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34210-002復興の碑1973広島県庄原市東城町粟田洪水(1970年8月18日)洪水昭和45年(1970)8月18日、瞬間雨量300mm余りの豪雨がこの地を襲い、甚大な被害をもたらした。住民が一丸となり再建に努め、3年余りで3億円以上もの巨費が投じられた。本碑は復興を祈念して建立されたものである。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34210-003農業構造改善圃場整備記念碑東城広域農道持丸工区記念碑2000広島県庄原市東城町持丸洪水・土石流(1997年8月5日)洪水・土砂災害平成9年(1997)8月5日、豪雨がもたらした土石流により持丸川が氾濫し、大洪水が発生した。平成11年度に施工された持丸川全面修復河川工事の完成に伴い、未曾有の災害を後世に伝えるものとして建立された。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34309-001水害碑1910広島県安芸郡坂町坂東二丁目洪水・土石流(1907年7月15日)洪水・土砂災害明治40年(1907)7月15日午前5時ころ,数日来降り続いた豪雨により総頭川が決壊し、死者2名、家屋流失11棟、田畑も流失するという大災害が発生した。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
34309-002水害碑1910広島県安芸郡坂町小屋浦四丁目洪水・土石流(1907年7月15日)洪水・土砂災害明治40年(1907)7月15日、数日来降り続いた豪雨により天地川や総頭川で土石流が発生した。この未曾有の大災害により、小屋浦地区では43戸の家屋がつぶれ、44名の命が奪われた。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#hiroshima)
35203-001高潮来襲記念碑不明山口県山口市秋穂東海岸通周防灘台風(1942年8月27、28日)高潮昭和17年(1942)8月27日に来襲した周防灘台風により高潮が発生し、山口市秋穂では死者2人、家屋の流失倒壊418戸、堤防決壊24カ所、塩田76haあまり全滅など甚大な被害が発生した。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#yamaguchi)
35203-002大風水害受難之碑1990山口県山口市名田島(市立名田島小学校敷地内)周防灘台風(1942年8月27、28日)洪水・高潮昭和17年(1942)8月27日に来襲した周防灘台風により午後11時頃に高潮が押し寄せ、堤防等8か所が決壊し、山口市名田島では死者32人、家屋の全壊流失68戸など甚大な被害が発生した。碑には当時の水位(床上1.5m)が刻まれている。[関連外部サイトへのリンク集 ](https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi_links.html#yamaguchi)
35203-003新地開作大風水害受難之碑1993山口県山口市佐山渚周防灘台風(1942年8月27、28日)高潮昭和17年(1942)8月27日に来襲した周防灘台風による高潮で新地開作の堤防が崩壊し、山口市佐山新地・渚地区で死者44人、家屋の全半壊、流失など甚大な被害が発生した。碑には被災時の水位が刻まれている。
35203-004水害記念碑1926山口県山口市徳地鯖河内(市立串小学校敷地内)大正14年9月1日の豪雨(1925年9月1日)洪水大正14年(1925)9月1日の豪雨で、鯖河内の杉名田、向河内、巧河内で出水(約45センチ)し、一面が川となり、13軒の家屋が浸水した。他に徳地島地では行方不明1名の被害も発生した。
36201-001沖洲蛭子神社百度石1861徳島県徳島市南沖洲1安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波安政南海地震(1854)では津波から船で逃げようとして命を失う者もいたことから「船で避難してはいけない」、こたつやかまどから出火して多くの家や倉が焼けたことから「冷静に火の始末をせよ」と伝えている。さらに、「100年のうちにこのような地震・津波がやってくる」と警鐘を鳴らしている。なお、碑は2003年に北沖洲から移転された。
36201-002慶応2年洪水痕跡1995徳島県徳島市国府町芝原慶応2年寅の大水(1866年9月15日)洪水慶応2年(1866)7月末(旧暦)から降り続いた雨により、8月7日に大洪水となった。芝原と第十の堤防が全壊し、土地の高い所でも床上約60~90cm、低い所では天井に達するほどの浸水となった。この碑のある蔵珠院に洪水の痕跡が残っており、標柱はその水位を示している。同院の過去帳には阿波の国中で37020人が溺死したことなどが記録されている。
36203-001赤石豊浦神社石碑不明徳島県小松島市赤石町94番1安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年(1854)11月5日(旧暦)、安政南海地震による津波が襲い、数多くの死者が出た。しかし、小松島豊浦と近郊の村々の人々は小高い豊浦神社に走り集まって難を逃れた。
36203-002金磯帽厳跡碑1910徳島県小松島市金磯町字入江町77番29安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月5日(1854年12月24日)の安政南海地震により帽岩が破壊された。「阿波志」によると、烏帽子岩は金磯にあり、高さ約7.3mで頂部が烏帽子に似ていた。ここを史跡として後世の人々に伝える。
36203-003立江八幡神社農地災害復旧碑1967徳島県小松島市立江町新開昭和南海地震(1946年12月21日)地震昭和21年(1946)、昭和南海地震に起因する地盤沈下により、立江町松塚、新開、黒岩、赤石、小田浦、炭屋、高田、松本、坂野町赤石、大林の水田約40万平方メートルは悪水が滞留して不毛の地と化した。
36204-001鵠和光神社石碑1992徳島県阿南市橘町青木昭和南海地震(1946年12月21日)ほか地震・津波鵠(くぐい)地区では、およそ100年ごとに大津波に襲われている。碑には1361年から1960年まで7回の大地震の記録が記され、平時の戒めとするよう説いている。また、1946年昭和南海地震と1960年チリ地震による津波の潮位も刻まれている。
36204-002大原地神上棟式記念碑1948徳島県阿南市福井町大原116-1昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和21年(1946)12月21日の明け方、昭和南海地震による大津波が福井村を襲い、海岸地一帯は泥海となり、大原平野の田畑も荒れてしまった。
36204-003福井住吉神社海嘯潮痕標石1948徳島県阿南市福井町浜田162昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和南海地震(1946)による最初の津波は住吉神社の石段6段目まで、2回目の津波は石段10段目まで達した。この津波で、負傷5名、家屋12棟、船10艘、床上浸水127戸等の被害が出た。衣食もほとんど流失した。
36204-004椿八幡神社常夜燈1856徳島県阿南市椿町浜1安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、安政東海地震の津波が土堤を越え、川筋の奥手まで上がったので、人々は津波の再来を恐れた。翌5日(24日)午後6時ごろ、安政南海地震による津波が来たので山の上に逃げ夜を明かした。家屋や田の被害は生じたが、犠牲者は出なかった。
36204-005椿公民館石碑2004徳島県阿南市椿町浜14安政南海地震(1854年12月24日) 昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波徳島県災異誌によると、3m以上の大津波が史上6回阿波の海岸に来ている。安政南海地震(1854)では約30haが冠水、昭和南海地震(1946)では保育所まで冠水した。災害は忘れた頃にやってくる、各地域で決めた高台へ避難することを説いている。
36207-001災害復旧記念碑1980徳島県美馬市穴吹町古宮昭和51年台風17号(1976年9月)土砂災害昭和51年(1976)9月8日から13日まで停滞した台風17号の豪雨により、古宮口山では随所で地すべりが発生し、住家・耕地・道路を破壊し、渓谷を埋め、集落が孤立した。旧穴吹町では死者2名、住家流失37戸、全壊45戸等の被害を生じた。
36207-002災害復旧記念碑1985徳島県美馬市木屋平川上昭和51年台風17号(1976年9月)土砂災害昭和51年(1976)9月8日から13日まで停滞した台風17号により、富士の池谷山腹の地滑りと崩壊による土石流が川上地区を襲った。住家・橋梁・道路・田畑などに大きな被害を生じたが、幸い犠牲者はなかった。碑には住民が協力して防災に励み先祖伝来の地を護るという決意が込められている。
36207-003殉職の碑1976徳島県美馬市木屋平川井昭和50年台風6号(1975年8月)土砂災害昭和50年(1975)8月23日、台風6号が剣山周辺を襲い雨量800mmを記録した。木屋平村川井地区で発生した山崩れで生き埋めとなった少年を救出すべく救援活動中の消防職員・団員4名が、再度襲った山津波に少年とともに呑まれ犠牲となった。
36383-001牟岐大震潮記念碑1931徳島県海部郡牟岐町中村安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年(1854)12月24日の大地震で、津波が三度押し寄せ、家屋640戸が流失、39名が亡くなった。永正9年(1512)、慶長9年(1604)、宝永4年(1707)にも地震があったこと、天変地異の兆しがあれば避難することが大切であることを伝えている。
36383-002出羽島観栄寺石碑(旧碑)不明徳島県海部郡牟岐町出羽島安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年(1854)12月23日朝8時に安政東海地震が発生し、約6mの潮の上下があった。翌24日午後4時に安政南海地震が発生し津波に襲われたが、出羽島では前日から山上に避難していたため事故やけが人はなかった。
36383-003出羽島観栄寺石碑(再建)1928徳島県海部郡牟岐町出羽島安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年(1854)12月23日朝8時に安政東海地震が発生し、約6mの潮の上下があった。翌24日午後4時に安政南海地震が発生し津波に襲われたが、出羽島では前日から山上に避難していたため事故やけが人はなかった。
36383-004牟岐旧旭町南海地震記念碑1949徳島県海部郡牟岐町灘字大牟岐田昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和南海地震(1946)で大きな被害を受けた坊小路地区では、後世の災害に備えるため10ヶ月かけて地盤埋立が行われ、町名が「旭町」に改称された。大地震の直後、津波の襲来を心すべきと記されている。なお、碑は1996年に旧旭町から移転された。
36383-005牟岐町における南海震災史碑1996徳島県海部郡牟岐町灘字大牟岐田昭和南海地震(1946年12月21日)ほか地震・津波昭和南海地震(1946)における津波襲来や被害の状況、過去の巨大地震津波の発生日などの記録が刻まれている。また、津波が起きるのは震源が40kmより浅い場合と、M6.5以上の地震を目安とすること、自分の身は自分で守ることを説いている。
36383-006牟岐町南海震災記念碑1978徳島県海部郡牟岐町中村昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波牟岐町は昭和南海地震(1946)では54名が亡くなるなど、安政南海地震(1854)以来の大被害を受けた。瞬時にして荒廃の町と化した痛ましい記録を刻み、後世への教訓とするため建てられた。
36401-001敬渝碑1856徳島県板野郡松茂町中喜来字牛飼野西ノ越30 春日神社境内安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した「安政南海地震」の被害の様子を記した石碑。激しい揺れによる家屋の倒壊と火災、液状化現象と津波による田畑の冠水、地震の被害が記されている。
37324-001大水害復興記念碑1979香川県小豆郡小豆島町神懸通昭和51年台風17号(1976年9月)洪水・土砂災害・その他昭和51年(1976)台風17号は9月11日には西条地区においても819mmの集中豪雨となって、土石流や平山池の決壊によりほとんどの家屋が流出、埋没、床上浸水の被害を受けた。土砂の流入は2万立方メートルにも及んだ。碑の隣には、この災害で被災した大正7年水害を伝える碑も存在する。
37324-002記念之碑1979香川県小豆郡小豆島町蒲野昭和51年台風17号(1976年9月)土砂災害昭和51年(1976)9月の台風17号による雨は8日早朝から12日までの累計雨量1400mmを記録した。9月11日23時20分には谷尻の山腹が崩壊し、その土石流が民家21戸を押し流し、24名の犠牲者が出た。
37324-003復興記念碑1980香川県小豆郡小豆島町馬木昭和51年台風17号(1976年9月)洪水・土砂災害昭和51年(1976)9月8日、台風17号の集中豪雨により、町内全域に山津波・山崩れによる土石流、急傾斜の崩壊、河川決壊等により、多数の死傷者、家屋倒壊・浸水など未曽有の被害を被った。
37324-004被災復興之碑1981香川県小豆郡小豆島町苗羽昭和51年台風17号(1976年9月)洪水・土砂災害苗羽地区は、昭和49年(1974)7月、昭和51年(1976)9月に集中豪雨災害を受けた。特に昭和51年の集中豪雨では、土石流が島内各地に起こり、流木や土砂が河川を埋没・決壊させ、濁流が一瞬にして家屋や田畑を押し流した。苗羽地区も犠牲者こそなかったが被害は甚大であった。
37324-005やすらぎの塔1980香川県小豆郡小豆島町馬木昭和46年台風23号(1971年8月) 昭和49年台風8号(1974年7月) 昭和51年台風17号(1976年9月)洪水・土砂災害昭和46年(1971)、昭和49年(1974)、昭和51年(1976)と10年間に3度も大災害を経験した。特に昭和49年台風8号では旧内海町内各所で大規模な土石流、河川氾濫、家屋の流失等が発生し、死者29名を出すなど100年に1度といわれる大災害となった。近くにある「1400ミリの像」は昭和51年台風17号の累積雨量と同じ高さに造られ、ノーモア災害の願いが込められている。
37324-006治山富國(災害復旧砂防工事碑)1934香川県小豆郡小豆島町福田昭和6年9月豪雨(1931年9月)洪水・土砂災害昭和6年(1931)9月8日、豪雨により土石流が発生し、河川はほとんど全滅した。死者5名、家屋の流失・半壊70棟、耕地の埋没約14haのほか、多数の道路・橋梁の損壊、浸水被害が生じた。原因は主として山地の荒廃によるものである。
38201-001立岩川洪水碑1889愛媛県松山市才之原明治19年洪水(1886年9月)洪水明治19年(1886)9月24日-25日、猛烈な風雨により立岩川の堤防が決壊し大洪水となった。激流は樹木や岩を押し流し才ノ原に至り湖のようになった。家ごと圧死した者、溺死した者、家を失った者は数知れない。被害は下流沿岸まで及び、家族を山に避難させ家に残った者は流された。
38201-002北温海岸防波堤竣工記念1962愛媛県松山市北条辻昭和南海地震(1946年12月21日) 昭和25年台風(1950)ほか高潮・地震松山市堀江町から浅海町に至る約15kmの海岸は、標高3~4mの石積堤防又は天然海岸で、度々高潮被害を受けてきたが、昭和21年(1946)12月の昭和南海地震により約60cmの地盤沈下が生じ、その後の昭和25年(1950)、27年(1952)、29年(1954)の相次ぐ台風により大きな被害を生じた。
38201-003大可賀溺死者招魂碑1886愛媛県松山市大可賀2明治17年台風(1884年8月)高潮明治17年(1884)8月25日に襲った台風は、県内海岸部に高潮による被害をもたらした。大可賀新田では、北西の堤防が決壊により一帯は海となり、戸数約70戸のうち溺死者50名以上、家屋流失49戸、田畑流失約53haの大きな被害を被った。
38201-004豫州(よしゅう)溺死者招魂碑1884愛媛県松山市元町明治17年台風(1884年8月)高潮明治17年(1884)8月25日に襲った台風は、県内海岸部に高潮による被害をもたらし、大可賀・三津浜を中心に280名以上が溺死したと伝えられている。風化によりすべてを読み取ることは難しいが、当日の風向きの変化、怒濤のように海水が流入した様子、多くの溺死者が漂う状況が碑文から垣間見られる。
38207-001須沢追悼碑1889愛媛県大洲市長浜町須沢丙803土砂災害(1886年9月24日)土砂災害明治19年(1886)9月24日台風襲来により櫛生村須沢では、山腹が約270mにわたって崩壊、瞬時の間に山すその人家が埋没、流出。土砂で家屋の倒壊、田畑の流出が相次ぎ、多数の死傷者を出した。この災害で39人が犠牲となった。
38401-001水害復興記念碑1945愛媛県伊予郡松前町大字中川原昭和18年台風(1943年7月)洪水昭和18年(1943)7月21日から24日にかけて、松山地方では台風により年平均雨量の5ヶ月分に相当する豪雨となった。23日午前9時に徳丸地区の堤防が決壊し、濁流が押し寄せた中川原地区は腰の上まで浸水した。他にも岡田地区で複数の堤防が決壊し、町は耕地の流失・埋没1730ヘクタールの被害を受けた。
39201-001浦戸稲荷神社石柱碑1826高知県高知市浦戸安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に安政南海地震が発生し、津波があった。この碑は地震で倒壊した鳥居を利用したと伝えられており、大地震があると津波も来ると心得るべしと記されている。
39201-002三里仁井田神社玉垣碑1857高知県高知市仁井田安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波安政南海地震(1854年12月24日)では、地震発生の数日前から潮位変動や鈴波の現象があったとされている。この碑にはこのことが刻まれており、潮の狂いが見られる時は油断してはいけないと警告している。
39201-003奉再建大鳥居一基(仁井田神社御旅所の碑)1953高知県高知市仁井田昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和南海地震により倒壊した鳥居を再建した記念碑である。昭和21年(1946)12月21日4時過ぎ、突如大地震が発生し甚大な被害が生じたこと、この付近の地盤が数尺(約1~2m)沈下したことが記されている。
39201-004災害復旧記念之碑1979高知県高知市円行寺昭和51年台風17号(1976年9月)土砂災害昭和51年(1976)9月13日未明、台風17号の豪雨により大谷山が崩壊し、赤井谷の民家8戸32棟が流失・埋没、耕地約52haが砂礫に覆われたが、犠牲者はなかった。天災は忘れた頃に来るという先人の教え、防災への決意と念願が込められている。
39201-005比島山災害慰霊碑2005高知県高知市比島町2昭和47年比島山災害(1972年9月)土砂災害昭和47年(1972)9月15日夕刻、局地的豪雨により比島山が崩壊し、瞬時に十数戸が倒壊、10名の死者と数名の負傷者を出した。犠牲者への追悼に加え、傾斜地の宅地開発における安全対策と、将来起こり得る災害に対する住民の一致協力の誓いが込められている。
39201-006大津地区水害記録碑1999高知県高知市大津乙平成10年豪雨(1998年9月)洪水平成10年(1998)9月23~25日、前線による記録的な豪雨により9名の死者と約2万棟の浸水被害があり、特に大津地区は未曽有の被害を被った。再び災害がないことを願って、この集中豪雨最高水位と1972年9月15日の国分川決壊最高水位を刻んだ碑が建立された。
39201-007災害紀念1930高知県高知市大津乙大正14年水害(1925年9月)洪水大正14年(1925)9月17~18日の国分川大洪水により水張堤防の上約60cmまで浸水し、死者2名、約261mにわたる水張堤防の決壊など莫大な被害をもたらしたことが記されている。
39205-001安政地震の碑1858高知県土佐市宇佐町宇佐1457-3安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年(1854年)の安政南海地震により津波が8、9度宇佐町を襲った。残った人家は60~70件で、70人余りが溺死した。宇佐の地形は前が高く後ろが低いため東西の低地から潮が入り込む。伝承を信じてすぐに山手へ逃げ登った者は助かった。後代の人よ、とにかく早く山の平らな近くに岩がない所を選んで逃げなさい。
39205-002震災復興記念碑1949高知県土佐市宇佐町宇佐3160-1昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和21年(1946年)12月21日に発生した昭和南海大地震により津波が7,8度宇佐の町を襲った。町の82%にあたる1,320戸が被害を受けたが、犠牲者が死者1名、行方不明者1名にとどまったのは「欲を捨てて逃げた人は命が助かる」という伝承のおかげである。
39205-003復興之塔1978高知県土佐市高岡町甲2179昭和50年台風5号(1975年8月17日)洪水・土砂災害昭和50年(1975年)8月17日に高知県を襲った台風5号は、時間雨量117ミリ、日雨量550ミリという空前の豪雨をもたらし、6人の生命を奪った。さらに1590haの土地を泥海と化し、床上浸水2255戸などの深いつめあとを残した。
39205-004防災記念碑1978高知県土佐市蓮池978-1昭和50年台風5号(1975年8月17日)洪水・土砂災害昭和50年(1975年)8月17日に来襲した台風5号により、土佐市は死者6人、住家の全半壊・浸水約5,000戸に達する未曾有の大災害を受けた。台座の横線は当時の浸水位を表している。
39205-005災害之記録碑1976高知県土佐市家俊29-5昭和50年台風5号(1975年8月17日)洪水・土砂災害昭和50年(1975年)8月17日に高知県を襲った台風5号は、河川を一瞬にして氾濫させ住家・田畑・公共施設を濁流の中へと押しやり、食糧、交通、電気通信等が寸断され孤立状態となった。台座の横線は当時の水位を示している。
39205-006岩戸川災害復興記念碑1979高知県土佐市岩戸510-2昭和50年台風5号(1975年8月17日)洪水昭和50年(1975年)8月17日の台風5号により、岩戸川が氾濫し、護岸の決壊等甚大な災禍に見舞われた。
39209-001五味天満宮地震碑不明高知県土佐清水市下ノ加江安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波安政南海地震(1854)の少し前から潮が狂い、前日(12月23日)にはすずなみが来た。翌24日、大地震後まもなく大津波がやってきた。潮が狂ったときは用心するよう説いている。この碑は伊豆田峠にあったが、昭和31年(1956)にトンネルが開通したため移転された。
39209-002清水中浜峠池家墓碑1855高知県土佐清水市中浜宝永地震(1707年10月28日) 安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波宝永地震(1707)では地震の後すぐに津波が3度襲い多くの犠牲者を出し、翌年も小さな地震が絶えなかった。大地震のときはまず火を消し家を出ること。安政南海地震(1854)では、前日より海水が濁り津波が入ったところや、井戸水が濁るまたは涸れるところもあった。地震前の変化にも注意すること。
39209-003清水中浜恵比須神社地震碑1855高知県土佐清水市中浜安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月(1854年12月)の大地震では、津波が4~5回押し寄せた。その高さは6mほどで、多くの犠牲者が出た。翌年も中小の余震が絶えなかった。
39209-004三崎浦震災供養石仏1865高知県土佐清水市三崎浦1安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月5日(1854年12月24日)午後4時頃に大地震が発生し、すぐに津波がやってきた。旧三崎川からあふれた津波は、東は田中の横道(現在の碑が建つ場所)、西は高仏(現在の三崎香佛寺墓地付近)まで達した。
39209-005三崎十字橋碑不明高知県土佐清水市三崎浦4安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月5日(1854年12月24日)の安政南海地震(1854)では大地震のあと津波がすぐにやってきた、火を消して家を出ることが第一であると記されている。この碑は旧三崎川の十字橋がなくなった後しばらく放置されていたが、昭和51年(1976)ほぼ元の位置に再建された。
39209-006三崎平ノ段震災記念碑不明高知県土佐清水市三崎昭和南海地震(1946年12月21日)地震昭和21年(1946)12月21日午前4時、大地震に襲われた、これを南海地震という、と刻まれている。なお、この碑のある平ノ段集落は以前は海岸付近にあったが、宝永地震(1707)後に現在地に高台移転したため、安政南海地震(1946)の際には津波被害を免れている。
39209-007下川口春日神社地震碑不明高知県土佐清水市下川口宝永地震(1707年10月28日)地震・津波宝永地震(1707)により、下川口地区では、津波が山まで達し家が少し残るのみで浦の家屋はすべて流失した、当時下川口郷にあった正善寺の板縁まで波が及んだと伝えられている。碑は宝永から享保の頃に建立されたと伝えられているが、地震発生年月日が刻まれたのみで未完成。
39209-008下ノ加江五味天満宮天災記念碑1927高知県土佐清水市下ノ加江大正9年水害(1920年8月)洪水・土砂災害大正9年(1920)8月15日、激しい雷雨により山崩れが発生し濁流が襲い、平時より5m弱水位が上昇した。堤防や道路が決壊し、一面は泥海と化した。下ノ加江郷分の耕地荒廃は約62ヘクタール、堤防破損は約910mであった。
39209-009下ノ加江水害記念碑1929高知県土佐清水市下ノ加江大正9年水害(1920年8月)洪水・土砂災害大正9年(1920)8月15日、夜間天候が険しくなり、雷鳴が轟いた。豪雨で山崩れが発生し、押し寄せた濁流は堤防や道路を破壊し、田畑を荒廃させた。下ノ加江川流域のほとんどが砂礫の原となり、住民は生活の再建を見いだすことができず茫然自失としていた。
39209-010三崎川堤防復旧記念碑1923高知県土佐清水市三崎浦3大正9年水害(1920年8月)洪水・土砂災害大正9年(1920)8月15日朝からの雨は、午後から雷を伴う豪雨となり、夜には山の数ヶ所が崩れ、濁流が押し寄せ、増水は約3.6mに及びあらゆる物が流された。16日朝に雨は止み、水はようやく退いた。堤防の決壊は4,200mあまりに及び、海岸の集落で濁水が浸入しなかった家はなく、水田は一日で荒野と化した。
39209-011下川口郷災害記念碑不明高知県土佐清水市下川口大正9年水害(1920年8月)洪水・土砂災害大正9年(1920)8月15日正午頃から雷雨激しく、午後10時過ぎには大洪水となり、山崩れや道路・堤防決壊が発生した。下川口村では死者14名、家屋倒壊36棟、田畑約201ha、堤防36km、道路橋梁3.6kmなどの被害が生じた。
39209-012下川口災害一周年記念碑2002高知県土佐清水市下川口高知県西南部豪雨(2001年9月)洪水平成13年(2001)9月6日未明の局地的な集中豪雨により、下川口郷地区では午前5時頃に宗呂川と木ノ辻川が氾濫、下川口浦地区では満潮と重なり行き場をなくした川の水により一面海と化した。この災害から一周年を記念して建てられた碑の頂部付近には、当時の水位が刻まれている。
39209-013下ノ加江洪水記念碑1928高知県土佐清水市下ノ加江大正9年水害(1920年8月)洪水大正9年(1920)8月15日、激しい雷雨により夜には洪水となり濁流が襲った。道路・堤防はことごとく決壊し、部内全戸が浸水、うち2戸は流失した。田は30ヘクタールあまりが荒れ果て、見渡すかぎり上流からの流木が立ち並ぶ痛ましい光景であった。幸い犠牲者はなかった。
39209-014下ノ加江復旧記念碑1928高知県土佐清水市下ノ加江大正9年水害(1920年8月)洪水大正9年(1920)8月15日、雷雨が激しく大洪水となった。約30ヘクタールの水田は一夜にして荒野となった。
39209-015下川口災害七周年記念碑2008高知県土佐清水市下川口高知県西南部豪雨(2001年9月)洪水平成13年(2001)9月6日、秋雨前線の影響による大雨で、土佐清水市は24時間降雨量が520ミリに達し、家屋倒壊、床上・床下浸水、道路寸断の被害が出た。宗呂川の氾濫により、下川口浦、下川口郷地区は短時間で水没し孤立状態となった。碑の頂部付近には、当時の水位が刻まれている。
39209-016旧下川口橋親柱2004高知県土佐清水市下川口高知県西南部豪雨(2001年9月)洪水平成13年(2001)9月6日未明の高知県西南部豪雨により甚大なる被害を受け、下川口橋は現在の橋に掛け替えられた。碑は、大正9年(1920)大水害とこの災害を後世に語り伝えるために旧橋の親柱を用いて建てられた。
39209-017貝ノ川西南豪雨水害記念碑不明高知県土佐清水市貝ノ川高知県西南部豪雨(2001年9月)洪水平成13年(2001)9月6日未明の局地的な集中豪雨により、貝ノ川流域では貝ノ川地区を中心に全半壊48戸、床上浸水12戸、床下浸水52戸の被害が出た。碑には当時の水位が刻まれている。
39210-001南海大地震記念碑1950高知県四万十市中村昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和21年(1946)12月21日午前4時15分に起こった昭和南海地震により、旧中村町の8割の家屋が失われ、278名が犠牲となった。旧中村町の被害が大きかったのは、地盤が軟弱なためと学者から指摘されている。「災害は忘れかけた頃やってくる」という言葉を後人に残している。
39210-002横瀬耕地整理組合記念1943高知県四万十市横瀬大正9年水害(1920年8月)洪水・土砂災害大正9年(1920)8月、豪雨により山が崩壊し大洪水となり、堤防と道路のほとんどが決壊し、主要な耕地は全部砂礫で覆われた。成熟期を迎えていた稲の収穫も皆無となり、みな困り果てた。
39210-003整理紀念1923高知県四万十市手洗川大正9年水害(1920年8月)洪水大正9年(1920)8月15日、朝からの車軸を流すような豪雨は午後5時頃益々勢いを増し、翌朝まで続いた。電光は閃き雷は鳴り渡り、山は崩れ岩は落ち、轟々と音が凄まじかった。手洗川の道路堤防はことごとく決壊し、耕地8ヘクタールは砂礫に埋没した。
39210-004下田住吉神社安政南海地震伝承碑1859高知県四万十市下田安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波風化により詳細を知ることはできないが、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に地震による津波があったこと、潮の狂いに関する後世への心得が記されている。
39212-001繁藤災害慰霊塔1974高知県香美市土佐山田町角茂谷繁藤災害(1972年7月5日)土砂災害昭和47年(1972)7月5日、繁藤地区は豪雨に見舞われ、午前5時過ぎに追廻山が崩壊し、消防団員が生埋めとなった。救出作業を行っていたところ、午前10時55分に地すべりが発生し、60名が犠牲となった。塔の近くには、殉職殉難者慰霊像も建てられている。
39212-002災害記念碑1928高知県香美市土佐山田町東川大正14年水害(1925年9月)洪水・土砂災害大正14年(1925)9月14日、集中豪雨により山崩れや河川氾濫が発生した。平山地区では、田畑の流失約12ヘクタール、井堰の決壊埋没17ヶ所、水路の決壊埋没15ヶ所、道路の決壊約400m、土橋の流失3ヶ所の被害が生じた。なお、碑は東川と平山川の合流地点にあったが、昭和37年(1962)に移転している。
39212-003復興記念2001高知県香美市土佐山田町平山高知豪雨(1998年9月)土砂災害平成10年(1998)9月23日からの雨は25日未明までに総雨量1000mmを超え、至る所で山腹や堤防が崩壊、土石流が下流を襲い、大正14年(1925)以来の被害をもたらした。新改北部地区では、大きな物的被害を受けたが、「自分の命は自分で守る」のもとに夜半にもかかわらず相互扶助によりいち早く自主避難を行い、人的被害はなかった。
39401-001久礼熊野神社伝承碑1891高知県高岡郡中土佐町久礼宝永地震(1707年10月28日) 安政南海地震(1854年12月24日)ほか洪水・地震・津波・その他宝永地震(1707)では長沢のミドノコエや大川の井詰に潮が入ったこと、安政南海地震(1854)では3.6mの津波が襲い中札場下町通が流出し、町の2つの川に7回津波が襲ったことなどが記されている。このほか、白鳳地震(684)、明治23年(1890)水害などの記述もある。
39401-002復興記念碑1932高知県高岡郡中土佐町久礼安政南海地震(1854年12月24日)ほか洪水・地震・津波・その他久礼町を襲った災害として、安政南海地震(1854年)、大暴風雨及び大洪水(1886、1890、1899年)、大火災(1887、1894、1915、1926、1932年)の日時等が記されている。
39401-003水害紀念1931高知県高岡郡中土佐町大野見寺野明治23年水害(1890年9月)洪水・土砂災害明治23年(1890)旧暦7月27日(9月11日)午前6時に大雨、正午過ぎには大洪水となり、碑のあるあたりまで水が増して周辺は皆川原となったことが記されている。この水害により、旧大野見村では死者4名、家屋流失・倒壊47棟、山崩れ6000余ヵ所等の被害を受けた。
39402-001宝永地震伝承碑(原)不明高知県高岡郡佐川町黒原宝永地震(1707年10月28日)土砂災害・地震宝永地震(1707)により越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先で大規模な崩壊が発生し、仁淀川に天然ダムを形成した。天然ダムの湛水標高は61mで、これとほぼ同じ標高に石碑が残されており、地元では「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っている。
39402-002宝永地震伝承碑(場所ヶ内)不明高知県高岡郡佐川町黒原宝永地震(1707年10月28日)土砂災害・地震宝永地震(1707)により越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先で大規模な崩壊が発生し、仁淀川に天然ダムを形成した。天然ダムの湛水標高は61mで、これとほぼ同じ標高に石碑が残されており、地元では「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っている。
39402-003災害之碑1977高知県高岡郡佐川町西山耕昭和50年台風5号(1975年8月)洪水昭和50年(1975)8月17日に襲来した台風5号は、900mmを超える集中豪雨をもたらした。柳瀬川流域は氾濫し、西山地区では山林や田畑、堤防決壊、橋梁流失など百数十か所の被害を受けた。
39403-001宝永地震伝承碑(柴尾)1710高知県高岡郡越知町柴尾宝永地震(1707年10月28日)土砂災害・地震宝永地震(1707)により越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先で大規模な崩壊が発生し、仁淀川に天然ダムを形成した。天然ダムの湛水標高は61mで、これとほぼ同じ標高に石碑が残されており、地元では「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っている。
39403-002宝永地震伝承碑(女川)1710高知県高岡郡越知町越知宝永地震(1707年10月28日)土砂災害・地震宝永地震(1707)により越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先で大規模な崩壊が発生し、仁淀川に天然ダムを形成した。天然ダムの湛水標高は61mで、これとほぼ同じ標高に石碑が残されており、地元では「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っている。現在は、道路工事にともない標高70mほどの場所に移設されている。
39403-003宝永地震伝承碑(文徳)不明高知県高岡郡越知町越知宝永地震(1707年10月28日)土砂災害・地震宝永地震(1707)により越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先で大規模な崩壊が発生し、仁淀川に天然ダムを形成した。天然ダムの湛水標高は61mで、これとほぼ同じ標高に石碑が残されており、地元では「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っている。
39410-001慰霊塔不明高知県高岡郡日高村本郷昭和50年台風5号(1975年8月)洪水・土砂災害昭和50年(1975)8月17日に襲来した台風5号に伴う集中豪雨により、日下川・戸梶川の氾濫や山崩れが発生し、日高村は死者25名、家屋全壊71戸、半壊70戸、床上浸水638戸などの被害を受けた。役場前には当時の被害状況と最高浸水位(標高21.2m)を示す看板も設置されている。
39424-001高知県西南部豪雨災害の碑2004高知県幡多郡大月町小才角高知県西南部豪雨(2001年9月)洪水平成13年(2001)9月6日早朝、高知県西南部は豪雨によりまれに見る大洪水となり、河川氾濫、道路崩壊、田畑の埋没など甚大な被害を受けた。小才角地区では、全戸数の4割強にあたる60戸が床上・床下浸水の被害を受けたが、犠牲者はなかった。碑には、当時の水位も刻まれている。
39428-001安政津浪の碑1857高知県幡多郡黒潮町入野安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の昼にかすかな震動があり、鈴波が来た。翌5日(24日)午後4時頃大地震により家々は倒壊し、人々は山へ逃げた。7回襲った津波のうち第4波が最大で、村は砂漠、田は海になった。148年前の宝永地震(1707)でも同じことがあった。鈴波は津波の兆しであることを100年あまり後の人に伝えるためにこの碑を作った。
39428-002南海大地震の碑1966高知県幡多郡黒潮町入野昭和南海地震(1946年12月21日)地震・津波昭和南海地震(1946)の発生日時、震源地等の諸元のほか、幡多郡全域で320名の死者、6041棟の家屋被害が生じたこと等が記されている。1854年の安政大地震から92年目に建立されたもので、天災は忘れた頃にやってくると警鐘を鳴らしている。
39428-003安政南海地震伝承碑不明高知県幡多郡黒潮町伊田安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に鈴波が来た。翌5日(24日)午後4時頃、大地震の津波により浦はすべて流失した。これより140~150年先まで用心すべき。なお、鈴波がきたときは船を1kmほど沖へ停めておくとよい。
39428-004耕地整理紀念碑1926高知県幡多郡黒潮町有井川大正9年水害(1920年8月)洪水大正9年(1920)8月15日の大洪水は未曽有の天災であり、耕地の荒廃や堤防・道路の決壊等の大きな被害が生じた。
39428-005中野川耕地整理組合記念碑1937高知県幡多郡黒潮町中ノ川大正9年水害(1920年8月)洪水大正9年(1920)8月16日の豪雨により未曽有の洪水が発生し、幡多郡一帯の耕地は一夜にして砂礫の原と化した。特に、ここ中ノ川地区は7haを超える耕地被害により生活に困窮した。
40130-001福岡県西方沖地震復興記念碑2006福岡県福岡市東区大字勝馬福岡県西方沖地震(2005年3月20日)地震平成17年(2005)3月20日、福岡市玄界灘を震源とするマグニチュード7.0、震度6弱の地震により、道路が崖崩れなどにより通行止めになり、家屋被害も発生した。
40130-002福岡県西方沖地震復興記念碑2008福岡県福岡市西区大字玄界島福岡県西方沖地震(2005年3月20日)地震平成17年(2005)3月20日、福岡市玄界灘を震源とするマグニチュード7.0、震度6弱の地震により、玄界島は壊滅的な被害を受けた。(重軽傷19人、住家被害214棟〈内全壊107棟〉)
40130-003福岡県西方沖地震復興記念碑2007福岡県福岡市西区大字玄界島福岡県西方沖地震(2005年3月20日)地震平成17年(2005)3月20日、福岡市玄界灘を震源とするマグニチュード7.0、震度6弱の強い地震により被害が発生した。
40203-001筑後川災害復旧記念の碑1955福岡県久留米市高野1丁目2-1西日本水害(1953年6月)洪水昭和28年(1953)6月25日より降り続いた豪雨によって橋脚の流失や堤防の決壊が相次ぎ、市街地の8割が濁流で水没した。この記念碑は早急に行われた災害復旧工事の概要を記したもの。
40203-002筑後川昭和二十八年水害記念碑1983福岡県久留米市東櫛原町1713西日本水害(1953年6月)洪水昭和28年(1953)6月の筑後川氾濫による水位は、この災害碑の頂部にまで達した。その惨状を伝えるため、西日本水害から30年後に建立されたもの。
40204-001記念碑1958福岡県直方市大字植木昭和28年西日本水害(1953年6月26日)洪水昭和28年(1953)6月26日、前夜からの豪雨により遠賀川が増水、午前10時50分堤防が決壊した。洪水により住家一戸倒壊したが、幸いにも人と家蓄に被害はなかった。耕地の約50ヘクタールが流失埋没して砂丘のようになってしまった。
40225-001大村復興碑1932福岡県うきは市吉井町清瀬347洪水・土石流(1720年7月26日)洪水・土砂災害享保5年(1720)、耳納(みのう)連山では大雨による大規模な土砂災害が各地で発生し、うきは市浮羽町流川で発生した土石流が、増水した巨瀬川(こせがわ)を塞ぎ、濁流が大村集落に流れ込み46戸の集落が全滅した。土砂の堆積は60㎝から1mに達し、復興には長い年月を要した。享保5年の災害からの復興をなし遂げたことを記念して、昭和7年に建立された。
40225-002山潮記念碑1947福岡県うきは市吉井町富永598-1土石流(1946年7月8日)土砂災害昭和21年(1946)7月7日から降り続いた雨は8日未明より豪雨となり、大谷川上流の山腹が崩壊して土石流化し、泥水、砂礫、材木、巨石が西屋形地区を襲った。碑文には、享保5年(1720)に山潮(土石流)の災害に遭い、227年を隔てて再び同じ災害を被ったの記述がある。また、文末には、子孫は不屈の愛郷心を受け継ぎ、不測の事態に備える覚悟を忘れるな。と記されている。
40225-003大水害記念碑1948福岡県うきは市浮羽町朝田480洪水(1946年7月8日)洪水昭和21年(1946)7月8日に発生した水害の記念碑碑文には、昨夜来の豪雨につぐ豪雨で巨瀬川と柳野川が氾濫・決壊し、家屋の流出浸水は数えきれないほどで、田畑の荒廃は30余町におよんだ。と記されている。
40225-004儲穀の碑1794福岡県うきは市吉井町富永123-1土石流(1720年)土砂災害享保5年(1720)に発生した土砂災害によって、生活に困窮したため、災害に備え穀物の備蓄に努めたことを記録した記念碑碑文には、享保年間この村は山崩れによって、水はあふれ田は砂や石で埋まった。不慮の災厄に対しては日頃の備えが肝要なので、村長は一同と相諮り穀物を蓄積することとし、以来25年間、今年、寛政6年(1794)までに、77石余りを蓄えた。と記されている。
40225-005水害復興碑1958福岡県うきは市吉井町新治949-2西日本水害(1953年6月26日)洪水昭和28年(1953)に発生した西日本大水害の記念碑碑文には、昭和28年6月25日から26日に至る豪雨は、巨瀬川、美津留川がまず氾濫し、橋梁相次いで流出、大石、長野水道も崩壊し、恵蘇宿鉄橋も流出する。中島堤防500mが決壊し濁流奔馬の如く村内に進入する。床上・床下浸水300有余戸、田畑の荒廃130町歩におよぶ。と記されている。
40225-006水害復興碑1958福岡県うきは市吉井町八和田183-17西日本水害(1953年6月26日)洪水昭和28年(1953)に発生した西日本大水害の記念碑碑文には、昭和28年6月25日から26日、豪雨のため正午頃、筑後川川筋は未曾有の大水害となり、恵蘇宿橋付近では水位7.2mに達し、鉄橋は流出し、下手堤防は500m余りが決壊し、あたりの美田は忽ちにして泥海となり、退水の後は無残にも一望砂礫の荒野と化し、新聞ラジオは筑後砂漠として、その惨状を世に伝えた。と記されている。
40225-007大水害記念之碑1985福岡県うきは市吉井町橘田606-4西日本水害(1953年6月26日)洪水昭和28年(1953)6月26日、気象史上まれに見る豪雨により、筑後川の中州にあった中島集落は瞬時にして9戸のうち、7戸流出、2戸全半壊、死者6名をだす言語に絶する大惨事となり、加えて耕地は砂礫の原野と化した。中島集落は、筑後川の3大水害の明治22年(1889)と大正10年(1921)の水害では被害はなかったがこの水害により流出・全半壊し、これ以降、中洲に住む人はいなくなった。
40228-001土地改良並水害復旧記念碑1955福岡県朝倉市福光416昭和28年西日本水害(1953年6月25日)洪水昭和28年(1953)6月25日からの西日本豪雨により未曾有の大洪水が発生した。床上浸水は勿論、二階に浸水の家も多数であった。土地改良及び水害復旧工事に労役8870人を要した。
41203-001水害復旧記念之碑1959佐賀県鳥栖市酒井東町西日本水害(1953年)洪水昭和28年(1953)6月25日より4日間にわたる大豪雨のため、宝満川秋光川大木川が氾濫したことによる被害の状況を記している。また、碑には当時の水位を刻んでいる。
41203-002水害復旧記念之碑1959佐賀県鳥栖市酒井西町西日本水害(1953年)洪水昭和28年(1953)6月25日より4日間にわたる大豪雨のため、宝満川秋光川大木川が氾濫したことによる被害の状況を記している。また、碑には当時の水位を刻んでいる。
41203-003福岡西方沖地震伝承碑2006佐賀県鳥栖市原町福岡県西方沖地震(2005年3月20日)地震平成17年(2005)3月20日午前10時53分頃、福岡県西方沖を震源とするM7.0の地震が発生した。鳥栖市では震度5強を観測し鳥居が倒壊したが、悲惨な事故等がなかったことが唯一の救いであった。
41205-001住吉天満宮洪水水深記録碑不明佐賀県伊万里市南波多町水留洪水(1741年~2006年)洪水徳須恵(とくすえ)川は水留地区の集落を抜けると渓谷に入り川幅が狭くなるため、大雨が降ると増水し水留地区では水害が発生しやすくなります。住吉天神社の拝殿の柱には、江戸時代からの水害時の水位がに記録してあります。水位を刻んだ記念碑もあります。
41205-002大洪水記念碑1950佐賀県伊万里市大川町大川野宿洪水(1948年9月12日)洪水昭和23年(1948)9月12日午前二時頃、豪雨により松浦川が急激に増水し、堤防が決壊した。この洪水で、浸水家屋80戸、流出家屋7戸、死者7名の被害があった。碑には当時の洪水位が刻まれている。
41205-003西分地辷復旧碑1967佐賀県伊万里市山代町西分地すべり(1951年2月16日)土砂災害昭和26年(1951)2月16日、人形石山で突然大規模な地すべりが発生し、西分・西大久保・立岩地区の26戸が埋没し、3名の犠牲者を出す大惨事となった。
41205-004人形石山地辷復旧記念碑1960佐賀県伊万里市山代町西大久保地すべり(1957年7月6日)土砂災害昭和32年(1957)7月6日午後4時、人形石山は大音響とともに地すべりを起こし、一瞬にして家屋12戸を埋没し、7名の尊い命を奪った。
41207-001和田津海大神1917佐賀県鹿島市大字重ノ木台風・高潮(1914年8月25日)高潮大正3年(1914)8月25日午前10時、暴風、暴雨により、潮が堤防を越え、田、家屋が約4.5mの深さまで浸かった。また、天保14年(1843)にも堤防が決壊して潮が逆流した被害があったことも記されている。
41207-002七八災害復興之碑1966佐賀県鹿島市大字三河内梅雨前線による大雨(1962年7月8日)洪水・土砂災害昭和37年(1962)、7月8日に佐賀県西部を襲った集中豪雨は800㎜を超える降水量を記録し山林等のがけ崩れ、橋や堤防の崩壊、道路の切断が相次いだ。河川域の住宅では、人、家財道具、米麦等すべてが流された。
41207-003災害復興之碑1969佐賀県鹿島市大字音成梅雨前線による大雨(1962年7月8日)洪水・土砂災害昭和37年(1962)7月8日佐賀県西部を襲った集中豪雨は800㎜を超える降水量を記録し、山林・畑地の崩壊が相次ぎ、河川は氾濫・決壊し、住家の屋根まで水没した。
41209-001川上丹生神社の崩壊した鳥居不明佐賀県嬉野市嬉野町大字不動山シーボルト台風(1828年9月17日)その他文政11年8月9日(1828年9月17日)に大暴風雨に見舞われた。肥前国内は一夕にして1万2千人の死者を出し、多くの家屋が倒壊、流出、焼失した。この大風で丹生神社の大鳥居は柱の第一石を残して倒壊した。この倒壊した石材が鳥居脇に積み上げられている。
41209-002水害復旧記念碑1950佐賀県嬉野市嬉野町大字下野ジュディス台風(1949年8月17日)洪水昭和24年(1949)8月17日、ジュディス台風による大雨で吉田川が氾濫し、堤防決壊15ヶ所を始め家屋の全流失1戸や橋梁の流失3ヶ所等により甚大な被害を被った。
41209-003災害復旧記念碑1993佐賀県嬉野市嬉野町大字下野洪水・土石流(1990年7月2日)洪水・土砂災害平成2年(1990)7月2日、梅雨前線による集中豪雨で、河川氾濫、山崩れ、崖崩れが発生し、被害総額は40億円に達した。ここ七ツ川内地区においては、山崩れによる土石流が発生し道路が寸断され、家屋の倒壊・流失等甚大な被害を被った。
41425-001大正三年高潮災害紀念碑・潮塞(しおどめ)観音1921佐賀県杵島郡白石町大字福富高潮(1914年8月25日)高潮大正3年(1914)8月下旬に杵島、小城、佐賀、藤津の4郡を高潮が襲った。堤防が次々と決壊し、数千の家屋が流され、多くの人が溺死した。その被害を伝承すべく、村民により記念碑が建立された。隣には、決壊を免れた本堤の場所から発見された2体の石仏(潮塞(しおどめ)観音)をまつった御堂が建立されている。
41441-001慰霊塔1965佐賀県藤津郡太良町大字大浦丁字亀ノ浦昭和37年梅雨前線による大雨(1962年7月8日)土砂災害昭和37年(1962)7月8日、太良町は未曽有の集中豪雨により、一昼夜に亘る雨量は800ミリを超え、町内大小の河川は大氾濫を起こし、いたる所で山は崩れ、田畑は流され、人家は倒壊した。山津波は一瞬の中に44人の尊い命を奪い、127人の重軽傷者を出した。
42203-001流死菩提供養塔1793長崎県島原市三会町眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊して有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原での死者は1万人ともいわれ、津波による溺死体が多く打ち上げられた(島原大変)。津波は対岸の肥後天草も襲った(肥後迷惑)
42203-002流死菩提供養塔1793長崎県島原市田町眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊して有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原での死者は1万人ともいわれ、津波による溺死体が多く打ち上げられた(島原大変)。津波は対岸の肥後天草も襲った(肥後迷惑)
42203-003流死菩提供養塔1793長崎県島原市南崩山町眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊して有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原での死者は1万人ともいわれ、津波による溺死体が多く打ち上げられた(島原大変)。津波は対岸の肥後天草も襲った(肥後迷惑)
42203-004流死人供養塔1793長崎県島原市有明町大三東甲眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊して有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原での死者は1万人ともいわれ、津波による溺死体が多く打ち上げられた(島原大変)。津波は対岸の肥後天草も襲った(肥後迷惑)
42203-005流死人供養塔1793長崎県島原市有明町大三東戊眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊して有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原での死者は1万人ともいわれ、津波による溺死体が多く打ち上げられた(島原大変)。津波は対岸の肥後天草も襲った(肥後迷惑)
42203-006流死人供養塔1793長崎県島原市有明町湯江甲眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊して有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原での死者は1万人ともいわれ、津波による溺死体が多く打ち上げられた(島原大変)。津波は対岸の肥後天草も襲った(肥後迷惑)
42203-007流死供養塔1792長崎県島原市中堀町眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊し有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原側10184人、対岸の熊本側でも4997人溺死した。
42203-008溺死無縁塔1792長崎県島原市中堀町眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年(1792)、地震により眉山(まゆやま)が大崩壊し有明海に崩れ落ち大津波が発生した。島原側10184人、対岸の熊本側でも4997人溺死した。
42203-009平成三年雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼の碑1995長崎県島原市仁田町平成三年雲仙普賢岳噴火災害(1991年)火山災害1990年雲仙普賢岳の噴火が始まり1991年6月3日発生した大火砕流により43人が、また1993年6月23日の火砕流で1名の命が奪われた
42203-010消防殉職者の碑1999長崎県島原市平成町平成三年雲仙普賢岳噴火災害(1991年)火山災害1990年雲仙普賢岳の噴火が始まり1991年6月3日発生した大火砕流により消防団員12名を含む43人の命が奪われた。
42203-011犠牲者追悼の碑1995長崎県島原市北上木場町平成三年雲仙普賢岳噴火災害(1991年)火山災害1990年雲仙普賢岳の噴火が始まり1991年6月3日発生した大火砕流により43人の命が奪われた
42204-001諫早大水害復興記念碑1977長崎県諫早市高城町諫早大水害(1957年7月25日)洪水昭和32年(1957)7月25日、一日雨量900ミリ以上の集中豪雨が山津波と本明川の氾濫を引き起こし539人の犠牲者を出した。
42204-002水害復興記念碑1977長崎県諫早市富川町元禄水害(1699年) 諫早大水害(1957年7月25日)洪水元禄12年(1699)8月13日の水害により487人の犠牲者を出した。昭和32年(1957)7月25日には一日900ミリ以上という集中豪雨により539人の犠牲者を出した。
42213-001島原大変供養塔1799長崎県雲仙市国見町土黒甲275眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年4月1日(1792年5月21日)に「島原大変肥後迷惑」が起きた。眉山(まゆやま)の大崩壊によって起こった大津波は熊本県の沿岸に押し寄せ、溺死者約2万人以上の被害があったと言われている。この碑は、土黒海岸に打ち寄せられた身元不明の死者の霊を弔うために建てられた。
42213-002流死菩薩供養塔1793長崎県雲仙市国見町多比良甲156-5眉山崩壊(1792年)土砂災害・津波寛政4年4月1日(1792年5月21日)、温泉山(雲仙岳)の火山活動に伴う地震によって眉山(まゆやま)の東側半分が崩壊し、有明海になだれ落ち一大津波を引き起こした。人的被害は2万人以上で、沢山の死骸が浜辺に打ち寄せられた。この塔は琴平の海岸に運ばれた死体を埋葬した場所に建立された。
42213-003大水害記録碑1960長崎県雲仙市吾妻町牛口名714諌早豪雨(1957年7月25日)洪水・土砂災害昭和32年(1957)7月25日、有明海を中心とした諫早島原間の集中豪雨は日雨量1000mmを突破し、同日夕刻には河川が氾濫して周辺の土地建物をことごとく洗い流し、山崩れが生じ橋梁が落ちるなど、村の様相が一変する古今未曽有の大災害となった。
43211-001供養塔1793熊本県宇土市戸口町眉山崩壊(1792年)津波江戸時代後期寛政4年(1792)、島原半島の雲仙普賢岳が噴火した。火山活動が収まりかけた同年4月1日(旧暦)、地震により眉山(まゆやま)の山体が崩落し、有明海になだれ込んだ大量の土砂によって津波が発生した。この津波による犠牲者は、約15,000人と推定される。
43215-001水害復興の碑1981熊本県天草市倉岳町棚底(倉岳支所内)昭和47年7月豪雨(1972年7月6日)土砂災害昭和47年(1972)7月6日、梅雨前線による集中豪雨により天草上島の五町(当時)では随所において山津波(土石流)が発生し、農地のみならず人家まで流失や埋没し、倉岳町だけでも死者29名、全壊家屋74戸、床上浸水128戸、床下浸水963戸等の大災害となった。
43215-002水害慰霊碑1974熊本県天草市倉岳町宮田(遺迎寺境内)昭和47年7月豪雨(1972年7月6日)土砂災害昭和47年(1972)7月6日、梅雨前線による集中豪雨により倉岳と矢筈岳で山津波(土石流)が発生した。土石流はこれらの山を源流とするほとんどの河川にあふれ、農地のみならず人家まで流失や埋没あるいは倒壊し、倉岳町宮田地区だけでも17名もの命が奪われた。
43511-001災害復興記念碑1995熊本県球磨郡五木村甲字横手洪水・土石流(1963年8月17日)洪水・土砂災害昭和38年(1963)8月17日、集中豪雨により横手谷で土石流が発生した。これにより横手地区では全戸が流出し、死者10名、行方不明者1名の大災害となった。
44202-001水害碑不明大分県別府市東荘園2丁目6組洪水(1729年9月13日)洪水享保14年(1729)9月13日のはげしい風や洪水のため、別府村と南石垣村と境した人衆が20戸余りも潰れ、大境村の男女の溺死が21人も出た。
44203-001水難者慰霊之碑1981大分県中津市三光田口1993番地ため池決壊・土石流(1931年7月21日)土砂災害・その他昭和6年(1931)7月21日、梅雨期の雨水を含んだ八面山古池(現:八面山大池)は、前日の大雨により堤防が決壊し、土石流が発生した。この土石流により、20数棟の家屋及び約76ヘクタールの耕地が流出し、7名の命が奪われた。
44205-001大地震・大津波の碑2011大分県佐伯市米水津大字浦代浦480番地宝永地震(1707年10月28日) 安政南海地震(1854年12月24日)地震・津波宝永地震 宝永4年(1707)10月4日(旧暦)、大津波襲来。津波の高さは浦代浦で約11m。浦代と色利で死者20名。安政地震 嘉永7年(1854)11月5日(旧暦)、大地震、大津波襲来。津波の高さは約3m。浦代で死者1名。「津波は何度も襲う、急いで高いところへ逃げ上がること」等の教訓が刻まれている。
45201-001外所地震供養碑1701宮崎県宮崎市大字熊野1321寛文大地震(外所地震)(1662年10月31日)地震・津波寛文2年9月20日(1662年10月31日)午前0時、日向灘を震源とした外所(とんどころ)地震が発生し、死者200名、家屋全壊3800戸の甚大な被害が出た。当地ではこの地震による地盤沈降と津波により家屋246戸が海に没し、水死者15人の被害に見舞われた。ほぼ50年ごとに新たな碑が建立されている。
45201-002記念碑1917宮崎県宮崎市下北方町ため池決壊(1916年10月)その他大正5年(1916)10月、豪雨で新池の堤防が約100mあまりに渡って壊れたので、同年12月から修繕し、翌年1月に竣工し、記念碑を建てた。
45203-001北川河川激甚災害対策特別緊急事業竣工記念碑2004宮崎県延岡市北川町長井台風19号 洪水(1997年9月16日)洪水平成9年(1997)9月16日、台風19号の洪水の被害は、日中にもかかわらず尊い人命1人を失い、土地、家屋、機械器材等を合わせ55億円を上回る大損害となった。
45203-003畳堤記念石像2016宮崎県延岡市北町洪水(1884、他)洪水五ヶ瀬川河口は狭く、延岡は昔から洪水被害に悩まされてきた。明治17年(1884)に発生した洪水では、広い田畑が流され、多くの死傷者を出す被害があった。「畳堤」は川の水が堤防を越えて氾濫する前に畳をはめて洪水を防ぐ特殊堤防で、大正末期から昭和初期にかけて建設された。
45209-001山津波記念石1972宮崎県えびの市大字内竪947真幸山津波(1972年7月6日)土砂災害昭和47年(1972)7月6日、肥薩線真幸駅の裏山が地すべり性崩壊を起こし、30万立方メートルに及ぶ土砂が流出。住家28戸、非住家29戸が流失し、4名の方が亡くなられた。
45341-001慰霊碑(交通安全地蔵)1969宮崎県北諸県郡三股町勝岡昭和44年梅雨前線による大雨(1969年6月30日)土砂災害梅雨前線の活発化に伴う記録的豪雨のため、1969年6月30日に三股町勝岡で幅約30m、高さ約10mのシラス層の法面で崩壊が発生し、通行中の女子中学生4 名が犠牲となった。
46201-001櫻島爆發紀念碑(照国)1916鹿児島県鹿児島市城山町1-1大正噴火(1914年1月12日)火山災害大正3年(1914)桜島が大爆発した。前日から前兆があったため子供と老人を避難させた。家屋倒壊やがけ崩れなどで62名が死亡した。毒ガスや津波のデマが流れた。田畑は火山灰で埋まり溶岩は村を埋め海峡を塞いだ。過去と比較し変化を捉えることができれば被害軽減できるのではないか。何百年か後の噴火の時のために今回の概況を記して永久に伝える。将来の惨禍を軽減するために役立ってほしいと願う。
46201-002櫻島爆發紀念碑(桜峰)1919鹿児島県鹿児島市松浦町355大正噴火(1914年1月12日)火山災害大正3年(1914)に桜島が噴火した。前日から地震が続き、村民は老人と子供を避難させた。ほとんどの島民はすぐ避難したため死者が20人にとどまった。その後、溶岩が集落を埋め火山灰が田畑を埋めた。過去を見て次を推測すれば今後を知ることは難しくない。後世の人は万一のことを普段から心にとどめ、安全に慣れることなく変に騒がず、先人が苦労したことに答えを求めてほしい。
46201-003櫻島爆發紀念碑(桜洲)1925鹿児島県鹿児島市桜島小池55大正噴火(1914年1月12日)火山災害大正3年(1914)、赤水の真上で大爆発が起きた。桜洲校をはじめ、横山、赤水、小池はほとんど全滅して全島で被害は甚大だった。以来11年、内外の厚情に支えられて復旧の兆しを認めることができるようになった。後世の子孫のためにこれを残す。
46201-004櫻島爆發記念碑(東桜島)1924鹿児島県鹿児島市東桜島町17大正噴火(1914年1月12日)火山災害大正3年(1914)の爆発は安永8年(1779)以来の大惨禍で全島が猛火に包まれた。数日前から普段と異なる現象が生じ、村長は測候所に判定を求めたが「噴火はない」との答えだったため「あわてて避難しなくともよい」と伝えたが間もなく大爆発が起きた。住民は理論を信頼せず、異変を認識したら避難準備を行うことが大事である。
46201-005櫻島爆發紀念(有村)1916鹿児島県鹿児島市東桜島町345-1大正噴火(1914年1月12日)火山災害大正3年(1914)、天地を砕く大鳴動とともに桜島は凄惨な大爆発を始め、島民はあわてて自分の船や救援船で対岸に避難した。豊饒な土地は累々たる溶岩と化し、有村村民の多くは移住したが、帰ってきて開拓に従事するものもあった。噴火のてん末を記録し、後世に伝えたい。
46201-006大正噴火(旧桜洲小跡)1971鹿児島県鹿児島市桜島横山町189大正噴火(1914年1月12日)火山災害桜洲校は大正3年(1914)にこの溶岩の下に埋没した。桜島は鳴動や噴火を繰り返しているが当時のことは語らない。学校跡に碑を建立する。桜島の開発につれて古い碑が埋もれていく。ありし日の母校を偲びここに再建する。
46201-007烏島この下に(赤水)1951鹿児島県鹿児島市桜島横山町大正噴火(1914年1月12日)火山災害烏島は高さ約20メートル周囲約500メートルの、玄武岩質岩石の島であった。大正3年(1914)1月13日、桜島西腹から流出した溶岩は18日にこの島を埋没させた。ここに碑を建ててその跡を示す。
46201-008黒神埋没鳥居不明鹿児島県鹿児島市黒神町647大正噴火(1914年1月12日)火山災害大正3年(1914)の大噴火で噴出した大量の火山灰・軽石により、黒神地区にあった腹五社神社の鳥居は、噴火後たった1日のうちに埋め尽くされ、高さ3mあった鳥居が笠木部分の約1mを地上に見せるのみとなった。当時の村長・野添八百蔵氏の「後世に噴火の記憶を残そう」との英断により、そのまま現在に残されている。
46201-009竜ヶ水災害復旧記念碑1994鹿児島県鹿児島市吉野町8・6豪雨災害(1993年8月6日)洪水・土砂災害平成5年(1993)8月6日の鹿児島市を中心とする集中豪雨により甲突川の大氾濫で市中は水没し、国道・鉄道共に寸断され陸の孤島と化す状況であった。竜ヶ水地区では山腹の崖崩れが土石流となり、数十箇所で日豊本線とこれに並行する国道10号を分断し、通行者住民約2,500人が閉じ込められた。
46201-0108・6豪雨災害之碑2000鹿児島県鹿児島市平之町8・6豪雨災害(1993年8月6日)洪水・土砂災害平成5年(1993)8月6日、一日降水量259ミリ、甲突川上流の郡山町では一日降水量384ミリ最大時間雨量99ミリを観測するなど記録的な豪雨となり、約15,000戸が浸水する一方、市内各地で、崖崩れや土石流などが多発し、行方不明者1名を含む、47名におよぶ市民の尊い生命や貴重な財産を失う未曽有の大災害となった。
46208-001慰霊之碑1999鹿児島県出水市境町3795土石流(1997年7月10日)土砂災害平成9年(1997)7月10日午前零時45分頃、未曽有の集中豪雨により美しい丸岡山が崩壊、大量の赤茶色の土石流となって一部は砂防ダムを乗り越え針原集落を襲い21名の尊い命が失われた。
46208-002米之津川河川激甚災害対策特別緊急事業竣工之碑2006鹿児島県出水市文化町23洪水(2006年7月22日~23日)洪水平成18年(2006)7月18日から23日にかけての豪雨により、出水市では米之津川の春日橋や広瀬橋付近で二度にわたり氾濫、甚大な浸水被害が発生し、貴重な財産を失う大災害となった。
46214-001牛根麓稲荷神社の埋没鳥居不明鹿児島県垂水市牛根麓675-1桜島大正噴火(1914)火山災害牛根麓では大正3年(1914)の桜島大正噴火で道路田畑に約90~120㎝の降石灰が堆積し松ヶ崎小学校校舎、村役場、民家32戸が倒壊した他、多くの避難民が出た。降灰により埋没した(約1.45mまで掘り出された)牛根麓稲荷神社の鳥居が噴火の猛威を示す貴重な資料として現存している。
46214-002桜島焼亡塔1781鹿児島県垂水市海潟651桜島安永噴火(1779)火山災害安永8年(1779)10月1日、桜島が大爆発し、噴石等により157人が死亡した。『一刻もはやく人々を避難させよ。さもないと、噴火の火はこの世を壊滅させてしまうだろう』と漢詩が刻まれている。
46214-003本城川外六河川改修記念碑不明鹿児島県垂水市南松原町88桜島大正噴火(1914)洪水大正3年(1914)の桜島噴火により降り積もった大量の火山灰は、その後の降雨により土石流や泥流となって河川へ流れ込み、周辺の家屋や田畑を洗い流した。石碑には『本城川外六河川改修記念碑』と刻んである。
46215-001大水害救援之塔1971鹿児島県薩摩川内市神田町昭和44年梅雨前線による大雨(1969年6月28日)洪水昭和44年(1969)6月28日より7月7日にかけて梅雨前線が停滞し記録的な大雨を降らせた。川内川流域では春田川、平佐川等が氾濫、薩摩川内市の中心部はほぼ全域にわたって浸水し、死者・行方不明者52名、家屋全半壊・流失283 戸、床上浸水5,874 戸、床下浸水7,448 戸の被害が発生した。碑には浸水最高水位が約2mの高さに記されている。
46216-001毘沙門地区地すべり災害記念碑1996鹿児島県日置市日吉町日置8949番地6地すべり(1993年9月20日)土砂災害平成5年(1993)9月20日、日吉町毘沙門地区で、幅約100mの斜面崩壊が発生、人家や住民を巻き込み二名が死亡するという、地すべり災害が起こった。国内において流失土砂量・範囲が最大級の地すべり災害となった。
46220-001堀川防災記念碑1953鹿児島県南さつま市金峰町大野 下馬場 三田橋脇洪水・浸水(1946年月日不明)洪水大野地区は従来洪水の度毎に堤防の決潰浸水甚だしく耕地の荒廃農作物の被害が甚大であった。
46220-002扇山災害記念碑1994鹿児島県南さつま市金峰町大坂 扇山公園内土石流(1993年9月3日)土砂災害 平成5年(1993)9月3日、鹿児島を襲った超大型台風13号の風水害により甚大な損害を被りました。扇山地区では20名、白川地区では1名の人命が奪われました。
46225-001水害碑1995鹿児島県姶良市触田先8・1水害(1993年8月1日)洪水・土砂災害平成5年(1993)8月1日、梅雨前線や台風による記録的な集中豪雨により、姶良市触田地区のシラス斜面が高さ40m、長さ1.5㎞に渡って崩壊、多量の土砂や流木が流出し、下流域の人家や耕地に被害を与えた。
46392-001復興之碑2013鹿児島県薩摩郡さつま町西新町9-8鹿児島県北部豪雨災害(2006年7月22日)洪水平成18年(2006)7月22日、総雨量千mmを越える記録的な豪雨により川内川が氾濫し、大きな被害が発生した。これに対し河川激甚災害対策特別緊急事業が進められ、町内では椎込分水路や築堤など抜本的な河川改修が完了した。早期に復興することができたことへ感謝するとともに豪雨災害を永く後世へ伝えるためこの碑を建立。
46492-001高山川水害史碑2002鹿児島県肝属郡肝付町新富肝属水害(1938年10月15日)洪水・土砂災害1938年(昭和13年)10月14日から15日にかけて、旧高山町は総雨量420mmの大雨により無数の山腹崩壊による土石流が起き、死者118名・行方不明者53名・重傷者253名の大水害が発生した。
47207-001明和大津波遭難者慰霊之塔1983沖縄県石垣市字宮良689明和大津波(1771年4月24日)地震・津波明和大津波は1771年(明和8年)、石垣島南東沖を震源とするマグニチュード7.4の地震による大津波で、先島諸島に甚大な被害をもたらした。津波に襲われた八重山諸島では死者・行方不明者が9313人にのぼった。
47207-002石垣島東海岸の津波石群津波大石(つなみうふいし)不明沖縄県石垣市字大浜津波(不明)地震・津波年代測定調査で約2000年前の津波で今の場所に移動したということがわかってきた石です。明和大津波以前にも大きな津波がこの地を襲ったという教訓的な要素もある貴重な津波石です。
47209-001津波襲来の碑2012沖縄県名護市字大浦津波(1960年5月24日)津波昭和35年(1960)5月南米チリでM8.5の地震が起き大津波が発生、津波は太平洋を横断し日本近海を襲った。当地には数回に亘り襲来。津波高5mにも及び大浦橋が全壊、護岸も決壊した。
47209-002津波被災地跡1995沖縄県名護市字真喜屋津波(1960年5月24日)津波昭和35年(1960)5月23日南米チリ近海でM8.5の地震が起き大津波が発生。津波は太平洋を横断。当地には、真喜屋小学校があったが津波によって全校舎が破壊された。地域での死者は3人。
47209-003屋我地大橋の歴史不明沖縄県名護市字真喜屋津波(1960年5月24日)津波1953年に完成した初代の屋我地大橋は、わずか7年後の1960年地球のほぼ裏側に位置する南米チリでおこった地震がもとで発生したチリ津波により流失してしまいました。